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help リーダーに追加 RSS インドの美の世界ーA.ラマチャンドランの美術の創造と足跡

<<   作成日時 : 2008/04/04 13:08   >>

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1960年代から今日にいたるまで、日本と非常に深いかかわりをもつインド現代画壇の巨匠がいる。この画家は、比類のない豊かさと美しさをもち、長い年月の間にその新鮮さを失わない数々の絵本を、子どもたちのために描き続けてきた。代表的な絵本作品は、よく知られている「おひさまをほしがったハヌマン」、「ヒマラヤのふえ」、「まるのうた」、「ジブヤとひとくいドラ」などで、近刊には「黄金のまち」、「大亀ガウディの海」、   「10にんのきこり」などがある。その画家、A.ラマチャンドランが、約12年ぶりに2007年10月25日から11月12日まで、国際識字文化センター(ICLC)の招請によって、国際交流基金の協力で来日した。 
今回は、「10にんのきこり」(平成20年度児童福祉文化賞特別推薦作品・講談社刊)の出版にあわせての来日であったが、「ラマチャンドランの世界」と題した絵本原画展において、近刊の絵本「10にんのきこり」、「大亀ガウディの海」、「黄金のまち」の、それぞれ異なったスタイルの三作品(作品のあらすじを文末に紹介)の原画が、東京の表参道にある国連大学の1Fにある地球環境パートナーシッププラザで展示されたほか、11月1日には中目黒GTプラザホールにて、講演会(松居直との対談・DVD上映を含む)が行われた。上映されたDVDは、「蓮池―ラマチャンドランの世界(LOTUS POND – The World of Ramachandran, Bikram Singh監督作品」」と題した作品で、ラマチャンドランの画家としての足取りを、細かく追った初めての映像作品で、解説はすべてラマチャンドラン自身の著作物やインタビューから集められ、再構成されたものである。
これは彼の公式サイトである。 http://www.artoframachandran.com/




現代インド画壇の最も重要な画家の一人として絶大な評価をうけているA.ラマチャンドランは、1935年南インドのケララ州に生まれ、ケララ大學で文学の修士号をえた後、インド東部のタゴール国際大学(シャンティニケタン)で、近代インド絵画の先駆者のナンダラール・ボースやラムキンカール・ベジなどのもとで美術を学んだ。日本画家の秋野不矩との親交は、そのシャンティニケタン時代に始まり、秋野不矩がこの世を去るまで約40年にわたり続いた。ラマチャンドランの創作エネルギーの大半は、絵画(油絵と水彩)や彫刻にさかれているが、日本との関係が深いにもかかわらず、日本ではラマチャンドランの絵画や彫刻作品は、これまでまったく紹介されてきたことがなかった。

このため今回初めて、DVDの「蓮池」が日本で上映され、絵本とはまったく様相の異なるラマチャンドランの表現世界が紹介された。そこでこのDVD解説の内容の一部を紹介しながら、ラマチャンドランの思索や創造活動の源泉や背景の一端をみていきたい。

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ラマチャンドランの絵画は、1984年に発表された代表作のひとつ「ヤヤティ(Yayati)」(インド神話で王国とひきかえに、不老不死の息子の若さをえた王の話)ごろから、まったく内容と作風がかわった。それまでは、社会状況や問題を痛烈に批判し、表現形式もいわゆる典型的な現代美術の作品が大半をしめていたが、「ヤヤティ」以降は、神話を伏線にしながら、様々な象徴的なモティーフを用いて、ラマチャンドランによる新しい現代的な神話を再び語りなおすといった内容の作品をうみだしていくようになった。自然と人間(多くが女性)が見事に描かれ、その濃密で美しく・官能的ともいえる命の賛歌を、巨大なキャンバスの上に展開している。何十にも絵の具を塗り重ねながら、はじめて得ることができる絶妙な色調が、見るものを魅了して離さない。ラマチャンドランがなぜ批判されながらも、このように現代のインド神話の語り手のように作品を作り続けるのか、自身はDVD「蓮池」の中で次のように語っている。

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「私はもはや芸術が、貧困を除去したり、戦争を回避させるなどといった世界をかえられる力をもつとは信じていない。万一そのような力が美術にあるとするならば、ピカソのゲルニカがそれ以降のあらゆる戦争をやめさせられたことになる。しかしそうはならなかった。それでもゲルニカは偉大な芸術作品であるのは、この作品がこれまでとは一線を画して、美術における革命をおこしたからである。そして私にとって芸術とは、人々に静かで澄んだ心を獲得させることにある。人は音楽を聴いたり、本を読んだり、美術を鑑賞する際に、それぞれの心の中で小さな美しい世界をつくりあげる。私はそうした心をもたらす絵を描きたいのである。しかもそれは同時代を生きる人々にだけではなく、未来にやってくる人々にも深い喜びを、その一人一人の心の中に喚起できるような作品をうみだしたい」、と述べている。現代社会批判をも、直接的な形をとるのではなく、象徴的に神話的世界で深く刻まれる作品を作りだす以前のラマチャンドランの、美術活動初期の作品は、テーマこそ人間の本質を鋭くえぐるものであったが、表現方法はある意味で、ヨーロッパで培われた枠組みの延長線上にあったとラマチャンドランは語る。
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 「このため、以前の私の作品は容易に周囲から受け入れられたのだ。しかし私が自らの伝統を意識し、このインドの地の先人たちが残した美術表現の枠組みに学びこれに連なりながら自分の表現を追い求めるようになって、その作品は周囲の反発を受け、単なる伝統回帰者として、批評家には酷評された。 しかしなぜ自分自身の伝統に対する理解なしに、どのような美術運動も概念も、自らとの意味ある関連をみいだせるのだろうか」と一貫して作品をつくりだしてきた。 そして実はこのような姿勢はシャンティニケタンでの美術教育がまさに説いてきたことでもあることをラマチャンドランは語っている。「シャンティニケタンでは、教室の中で教えるのではなく、外の自然が私たちの先生だった。近くの村にでかけ、人々や風景をスケッチすることをさかんにやらせた。この現実の生活をスケッチし、自らの想像力とあわせて作品を作りあげていくという習慣は、その後もずっと私の習慣となっていった。

シャンティニケタンでは、ナンダラル・ボースの考えが学校全体の方向性をひっぱっていたが、彼は伝統的な表現世界や特にその中でも民俗絵画に、現代画家がつながりを見いだすことの重要性を訴えた最初の画家の一人であった。彼は完成された高度な美術と民俗美術とを分け隔てて考えることはなかった。この彼の偉大さを理解するのに、私も何年もかかったが、今日に至ってようやく、彼の美術哲学や美術教育に関する貢献は、他のどんなインドの画家もこれをしのぐことはできないほど、傑出していたことがわかる。私の師匠であるラムキンカール・ベジでさえも、自分の作品はすべてナンダラル・ボースの考えた事の延長線上にあると言っていたし、私はこのラムキンカールの弟子なのである。」

師匠のラムキンカール、そしてヴィノド・ビハリ・ムカジーについて、ラマチャンドランは続ける。
「ラムキンカールは私に何かを話して教えるわけではなく、私は師のする仕事のすべてを見、あらゆる瞬間に私は学んでいた。それは彼がスケッチをしているときにも、粘土をこねているときも、彫刻をつくっているときも、油絵を描いているときにも、また彼が歌ったり話をしているときにも、そして師が演出する演劇で、私が役を演じなければならなかったときにも、あらゆる機会が学びの時であり、学ぶことがないという瞬間はほとんどなかった。このような師匠との関係を私はとても誇りに思っている。そして今日でも何か仕事上の問題に直面した時には、師を思い出し彼の考えを思いかえしてみるのである。ラムキンカールが教えてくれたことは、技術をこえたものを見ることであった。いわゆる美術のきまりごとや美術学校で教えてくれるようなものをこえて、自分自身の哲学を作れといわれたのである。その哲学には枠組みがあり、ラムキンカールがその枠組みを与えてくれ、その枠組みをもって私は活動してきた。

もう一人のシャンティニケタンの師匠に、美術史を教えてくれたヴィノド・ビハリ・ムカジーがいる。ヴィノド・ビハリ・ムカジーは、私に壁画について教えてくれ、平らなキャンパスに描くのとは異なる、壁画の建築的な要素について目をひらかせてくれた。実は私は子ども時代に故郷のケララで、母親にくっついてヒンドゥ寺院によくでかけていった。ゴピナート寺院の外壁は、16世紀に描かれた儀礼のための壁画でうめつくされていた。残念なことに大半が消滅し、今はわずかな壁画が残っているのみである。私はこうした壁画の価値や意義を子ども時代には理解することはできなかったが、後になって有名なアジャンタやバーグの壁画の模写を見る機会があり、そのときにはじめて1000年もの間続いてきた独自の表現伝統が、自分の故郷にはあったことに気がつかされたのである。このことも自分の伝統とのつながりを重要視させる大きな契機になり、より広く大きな視覚的な表現世界の中の一部として、美術があることをわかるようになったのである。」こうしたラマチャンドランの発言により、現在のラマチャンドランの、伝統にのっとりその上で独自の世界をうみだすといった作品創造の姿勢は、途中から変化したわけではなく、当初から一貫してシャンティニケタン時代に強烈に育まれたものであることがわかる。

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シャンティニケタンを卒業して、次第にラマチャンドランは都会カルカッタで見る人間の悲惨さや貧困そして残酷さといった現実に心をかきみだされ、深い闇におちいった時に、自分自身や自分自身の考えをみいださせてくれたのは、画家ではなく作家のドストエフスキーだった。それ以来彼はドストエフスキーの信奉者であり、ドストエフスキーの思想に大きく影響された作品をつくった。


もう一つラマチャンドランが大きな影響を受けたと語っているのは、1920・1930年代のメキシコの壁画運動である。一般民衆の力、そして世界をかえようとそれをつらぬく気概に大きく心を揺り動かされ、それを作品の中に反映させていったという。そしてその後インドの首都デリーに移り住んだラマチャンドランは、その時代の様々な政治的事件に鋭く反応し作品を作るようになるのである。ポーランドに行きナチスの強制収容所を見た衝撃から、「解剖授業」と題した作品を描いている。しかしヨーロッパで起こった人間の歴史が、自分の目の前で再び、バングラデシュの独立闘争の中で行われた虐殺として繰り返されたのをみて、ラマチャンドランの中の、人間の残忍さや狂気にたいする強い嫌悪感は、より強い一般化されたものとなっていく。そして限りない殺戮と暴力の連鎖と1974年に行われたインドの核実験を契機に、彼の人間社会批判はさらに強固なものとなり、「核時代」と題した連作がうまれるのである。

核実験が行われたのは、ラジャスターンのポクランというところであったが、核実験が行われた数年前から、ラマチャンドランはラジャスターンの部族民の村に、定期的にスケッチにでかけ、絵画制作のエネルギーの源を得はじめていた矢先のことだったらしい。そのためインド自身が、広島・長崎の原爆の体験をまったくふまえることなく、自分の美の世界を探求するまさにその土地で、それらを一瞬に消し去ってしまったことは、ぬぐいようのない衝撃をラマチャンドランに残したことは、想像に難くない。しかしこのころのラマチャンドランは、ラジャスターンに伝わる細密画をに傾倒しはじめ、その作品をつぶさに研究していたころだったために、社会批判でありながらもそれを細密画が得意とする、豊かな情趣世界を描くようなかたちで、これを行ったのである。このロマンティックな情緒表現と凄惨な人間世界の描写との組み合わせをラマチャンドランは行い、新しい表現形式を獲得するようになった。しかし同時に、直接、社会正義を強く求めるような作品を、ラマチャンドランは徐々に作らなくなっていく。それをラマチャンドランは、自分自身がほんとうに身をもって、暴力の犠牲となったわけではないからと述べているが、このころからラジャスターンに自らをいやし、自然にかこまれた人間の生活の原風景のような世界を見いだしていくのである。

それはラジャスターンに住む部族民、ビールの人々の生活であった。人々の容姿は大地に根ざしたもので、その身につけている衣服、そして自然のリズムと歩みをあわせる生活、植物などすべてが、ラマチャンドランを魅了していき、その後の作品のモデルとなるのである。

そしてついに1970年代ごろから、ラマチャンドランの作品の大転換点ともいえる作品「ヤヤティ」の制作にとりかかるのであるが、なぜラマチャンドランはヤヤティという存在にひかれたのだろうか。ラマチャンドランは40歳代になっていたが、目の片方の視力に問題が生じ、絵をこの後どのぐらい描いていけるのか不安になった。そして以前に読んだヤヤティの物語が、突然新しい意味をもってきたとラマチャンドランは述べている。このインド神話であるヤヤティの物語は、強大な権力をもつヤヤティ王は老いて、何がなんでも若さをとりもどしたいと願い、息子フルに王国をすべてあげる代償として、息子の若さをもらうのである。ヤヤティは自らが失っていくものに執着するが、このヤヤティの経験を絵に表現してみたくなったのだというのである。
そしてできた作品が「ヤヤティ」であるが、このヤヤティは大きなキャンバスが約12枚で構成され、それらが三方向におかれて、できた空間の中央には赤ちゃんのような彫像がおかれている。ラマチャンドランはこのヤヤティで、快楽を求める普通の現代人を象徴する「礼拝所」を作ったと述べている。現代人はあらゆる時と場所で、快適さや快楽を求め続けているが、それには限りがあり、その限界の向こうには無の世界がひろがっているのである。つまりラマチャンドランはヤヤティを現代人の象徴として表現しているのである。

ヤヤティ制作の時代から、ラマチャンドランは積極的に彫像づくりにとりくむようになる。もともと彫像を作りたいという思いはあったが、1995年にパプアニューギニアに行った際に見た高くそびえるトーテムをみて、そのように縦に高くそびえるような彫像を作ろうという考えがまとまった。こうした彫像の代表作品が、「トランスになって」と題した複数のスタイル化された彫像で、女性たちが円をつくって、そのまわりをまわりながらおどっている。祭りでその女性たちは神がかりとなり、トランス状態にいるが、その中の一体は、筆を手にもち絵をかくラマチャンドラン自身である。
ラマチャンドランの像はその目を閉じてあり、後ろの肩部分に次のような言葉が彫られている。「絵を描くときには、私の頭、手、心は一つになっているのです。ですからあなたの言葉で私の邪魔しないでください」と。ラマチャンドランが絵を描くときにも、このようにトランス状態であることを、彼はラマチャンドラン流のユーモアで語っている。ラマチャンドランの表現の特色のひとつは「神話」によって、作品の意味を何層にも複数におりこめることにある。

「神話は、自分自身の文化に属する人々に対して、深く広くコミュニケーションを図れる手段」とラマチャンドランが述べているように、人々が自分自身の中に形作れるイメージを、神話の助けによって容易に備えることが可能なのである。こうしてコミュニケーションの共通基盤を神話が築き、ラマチャンドラン自身が伝えたいイメージをその上にのせることで、コミュニケーションがより容易になると述べている。

今回のラマチャンドランが来日した折に直接語ったことだが、このように絵の受け取り手との関係に関心をはらい、いかにコミュニケーションが効果的になりたつかということを考えるようになったのは、日本で子どものための絵本づくりを多くてがけたことが影響していると語っていた。「現代の神話の語り手」としてのラマチャンドランが描く世界は、インドの伝統に最も深く根ざしていながら、しかしその神話の世界はインド文化に属する人のみならず、より多くの人々の感性が共鳴する世界を描いている。ここまで優れた普遍的なレベルに到達したラマチャンドランの美術世界に、日本でもおめにかかれる日がくることを望んでいる。

黒川妙子 (国際識字文化センター(ICLC)事務局長、インド文化研究者)


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A.ラマチャンドラン

1935年南インド・ケララ州に生まれ。タゴール国際大学で本格的に美術活動をはじめ、ケララの寺院壁画の調査研究を実施。長年にわたり深い哲学、自然観察、社会的認識にもとづいた意欲的な油絵大作を次々に発表。一方、自身はヒンドゥ教徒でありながら、イスラム教系大学の美術学部設置に精力を注いだ。1980年頃からインドの伝統的な視覚表現を強く意識した独特な世界を構築し、常に注目される現代インド画壇の重鎮。日本では絵本作家として数々の名作で親しまれている。2005年インドの文化勲章を受章。現在ニューデリー市在住。 http://www.artoframachandran.com/


ラマチャンドラン来日中に開催された絵本原画展の三作品のあらすじ
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大亀ガウディの海
大都会の高層ビルの水族館で飼われていたガウディと呼ばれる大海亀は、長い年月にわたって、水族館での囚われの生活に嫌気がさしてきた。水族館の中は水温は調節してあるし、食べ物も決まった時間にはたくさん食べることもできた。しかしガウディは、昔住んでいた自然の海に帰りたいと思い始めてから、海の自然が恋しくて毎日、泣いてばかりいた。それに同情した魚やカニたちは知恵を出し、病気になったふりをして、見事に水族館から逃亡に成功するのだった。しかし、30年後の海の環境は全く変わっていた。南太平洋では核実験も行われ、海水も腐り始めていた。深刻な環境の中であらゆる生物が、生きる場所を求めて大移動をしていた。大亀ガウディは、このような絶体絶命の海の環境の中で、いかに生きていくのか?アジアの国々では、15言語に翻訳されて多くの子どもたちに読まれている物語。 (田島伸二作、ラマチャンドラン絵)日本語版・英語版 ディンディガル・ベル刊 アジア太平洋出版連合(APPA)出版賞金賞
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10にんのきこり10にんのきこりが山へ木を切りにいった。山には10本の木があった。一番目のきこりが最初の1本目を切り、そして二番目のきこりが2本目の木を切り、そして三番目のきこりが3本目の木を切っていく。きこりたちは「まだある!まだある!」と言いながら木を切り続けるが、切り倒された木々の向こうから、トラの尻尾が次第に現れてくる。そして木がぜんぶ切り倒されたときに・・そこから大きなトラが現れて、きこりたちは全員食べられてしまう。そして、山には、木は1本もなくなりきこりたちも、1人もいなくなって、0(ゼロ)になってしまうという物語。(インドは、古代にゼロを発見した国として世界に知られている)  (ラマチャンドラン作画、田島伸二訳、講談社刊) 「平成20年度厚生労働省社会保障審議会特別推薦児童福祉文化財」
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黄金のまち
むかしむかし、サティヤダルシ(真実を求める人の意)という若者が、各地をめぐるうち、美しいカレカ姫に恋をした。姫を恋いこがれるあまり、黄金のまちを見たと姫に告げ、黄金のまちは調和に満ちた世界だと説明する。これを冷笑した姫は、サティヤダルシを王国から追放してしまう。うちひしがれたサティヤダルシは、ほんとうに黄金のまちを探そうと心に決めたが、どこまでいってもどんな賢人にきいても、黄金のまちの所在はわからない。ついに黄金のまちを知っているという人に会えたが、彼はなぜか黄金のまちからはすぐに立ち去るようにとの謎の言葉を残す。到達した黄金のまちで、サティヤダルシは死の床に横たわるカレカ姫を発見する。黄金のまちとは、近代文明がたどった悲劇であったという不思議な物語。
(ラマチャンドラン絵 チャミリ・ラマチャンドラン文、ろかわたえこ訳 三友社刊)
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