精霊の棲んだ山で

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(村の門近くに置かれている男女の木彫り像)
村の表と裏には、木で造られた鳥居のような門がある。かつて、村の人々は森には精霊が棲んでいると信じていた。人間の縄張りを精霊に知らせるために、毎年新しい門が、朽ち始めた古い門の外側に植えつけられる。その周りには、精霊が間違って人間の世界に迷い込むことのないよう、最も人間的な行為とされる男女が交接する格好の木彫り像が置かれている。
陸稲(おかぼ)が稔る空気の乾いた朝、友人のペーの後ろに乗り、ホンダウェーブで隣村へ行こうと山を下っていると、
「アカ族はどこから来たか知っている?」と聞く。学術的には、アカ族の起源は正確には明らかではないが、豊かな口承伝承の習慣を受け継いだ村の長老たちは、一代目から自分の代までの名を暗誦し、後世にルーツを伝えてきた。たとえば、北部タイ出身の長老と中国雲南省の長老が出会い、先祖の名を暗誦し合うと何代目で枝分かれしたのか分かる。アカ族の人々は文字を長いこと持たなかったが、こうして民族の足取りを代々伝えてきた。
「中国の雲南省のあたりから移動してきたんじゃないの?それとも、もうちょっとチベットよりの方からだっけ?」と、バイクの風に負けないように声を張る。
「それも学者たちが言っているひとつの説だけど、最近研究されている説で、アカ族はエルサレムから移動してきたんじゃないかって言われてるんだよ。」
「え~、そんなの聞いたことなーい!」
「それがね、昔イスラエルには12の民族が暮らしていたとされるんだけど、今足取りをたどれるのが11民族しかないんだよ。残り一つの民族の特徴とアカ族の特徴が似ているから、それがアカ族じゃないかと言われてるんだよ。僕もそう思ってるし、モジュ伯父さんもそう信じてるよ」と、少し誇らし気に話した。キリスト教にいち早く改宗した家族の若旦那と仲のよかったぺーは、ミサやキリスト教の勉強会に参加しつつも、一年前は、「仏教や、アカ族の精霊信仰ももう少し勉強してみて、自分にあったものを見つけたいんだぁ」と話していた。都会は二日もいれば飽きてしまうという、純朴そうな二十歳過ぎの青年もいろいろ考えるのね、と思ったのを覚えていたので、この変化には驚いた。

毎年、稲刈りの前に収穫に感謝し、キンカオマイ(新米祭)を行うが、その時も私がいつも泊まらせてもらうモジュ一家はキリスト教式で行う。木とわらで建てた小さな教会に、畑で取れたなんきん、きゅうり、なす、マリーゴールドなどたくさんの野菜と花でパーティー会場のように飾り付けをする。近くの街、Mae Suruayから若い牧師さんを迎え、キリスト教徒の家族とたくさんの子どもたちが集い、アカ語やタイ語の賛美歌を歌って踊り、神の恵みに感謝し、祈りを捧げる。牧師さんはお説教もするが、賑やかなミサである。

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        キンカオマイのミサ

この牧師さんは、村の子どもたちからはAjaan(先生)と呼ばれている。学校が休みになり、宿舎にとまり街の小中学校に通っていた子どもたちが村に帰ってくると、Ajaanは毎晩Mae Suruayの街から30分ほどスクーターを飛ばしアカ語の読書きを教えにくる。毎晩、小学校にあがる前の幼児から、その親や青少年が集まり、わいわいとアカ語の文字を学ぶ。アカ語の表記は、中国の言語学者がピンイン(中国語のラテン文字を用いた発音表記)を用いて開発したが、そのむかし我々にも文字があったと村の人は自慢げに話してくれる。けれども、文字を牛皮に書き留めたものだから、飢饉に見舞われたときにお腹が空いてその牛皮を食べてしまったので無文字文化になった、と言い伝えられている。現在は、ピンインをもとに開発され表記をもとに、3つの表記体系が存在する。中国雲南省の表記と、国際的な表記とされるMPCD-SEAM がまとめた表記、キリスト教の指導者らが開発した表記 は細部で異なり、統一されていない。もちろん、Ajaanの教室で習うアカ語文字はキリスト教方式である。そして、一番盛り上がるのは歌の時間で、振り付けつきの賑やかな賛美歌が、小さな学び舎から夜の村に響き渡る。
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アカ語文字教室

アカ族に限らず、北部タイに暮らす少数民族の抱える課題は複雑だ。高度経済成長を遂げたタイ社会との格差は広がる一方で、少数民族を観光資源とした観光業からも恩恵を受けることはなく、都会の旅行業者ばかりが潤う。かつて麻薬の生産や密輸が盛んだったこの地域では、今は覚醒剤が取引されていると言われている。未だ戸籍が認められていない人も多く、土地の所有権から教育まで基本的な権利が与えられないケースもある。農耕地の減少、若者の都市への流出、伝統文化の喪失、共同体の崩壊、タイ社会での地位の低さなど、のしかかる困難を振り払うかのように、若者たちはいま神に祈ることで光を見出そうとしているのかも知れない。精霊信仰の文化を捨てることを、軽々しく非難することもできないが、一神教の神に祈ることで、村びとが本当に幸せになれるのか、私にはわからない。

自然と共に暮らし、朝焼けの美しさや雲海に圧倒され、夕暮れのグラデーションを見て日々暮らしているうちに、何か見えないエネルギーに包まれているような気がする。それは、むかし村びとが精霊を畏れ敬った気持ちと近い想いかもしれない。自然の恵みと脅威と隣りあわせで生きてきたアカの人々からもらったエネルギーは、今も私の原動力である。

秋元 波




























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