竹と詩の国での識字ワークショップ



1987年のことである。
バンコックで食べた海鮮料理の味を思い出しながら、私はベトナム航空に乗って、機上からベトナムの山々をながめていた。ベトナムの山々はタイの山々と比べると緑が少なく、あちらこちらに赤い地肌が痛々しく見える。聞くところでは森林を伐採した後、何も植林がなされていないとのことだが、私の脳裏には様々な事が流れた。

このあたりはベトナム戦争で、最も激しい戦闘が行なわれたところに違いない。おそらく北爆のコースにあたっていたのではないだろうか。戦争後、すでに12年がすぎるが、今回ベトナムの素顔を見れることになることは、とても従来では考えられなかったことである。

1987年のベトナムの教育状況は、識字率(十五歳以上)が85%といわれているが、50以上の少数民族や、深刻な経済問題など沢山の課題をかかえており、ACCUは識字教材の開発における協力を求められた。日本からは絵本作家の津田櫓冬氏、インドネシアから教材製作を担当するノンフォーマル教育専門家のドコ氏、ユネスコからサキヤ氏が加わった。

ハノイ空港に配置された多数のミグ戦闘機を見た時、ベトナムが未だ厳しい国際情勢の中におかれているのを実感したが、機が着陸態勢に入った頃より、何となく胃の調子がひどく悪いのを感じていた。それは悪いというよりも、胃が猛烈に痛かったのである。それは入国審査が行われている時に最悪に達した。

つまり私はパスポートを検査官にさしだすと同時に、検査官の机に激しく嘔吐してしまったのである。入国審査で、パスポートと一緒にゲロを差し出すのは、世界でも極めて珍しい事件ではないか(笑)今になっては笑い話になるものの、当時の激痛は言葉にもならないぐらいの痛みだった。 要するに食中毒だったのである。機内で食べた厚めのハムがなんとなく怪しい気はしていたが・・・窓際に座り魚を食べた友人はなんともなかった。

私は、すぐに出迎えの教育省の車で、ハノイ国際病院に連れていかれた。ベトナムの係員が背に負ぶって診察室へ連れて行ってもらった時には「助かった!」と思ったものの、診察室には医薬品や器具たしいものがほとんどなかった。2-3人の女医や看護婦が、「医薬品もないのでどうしようか」と考え込んでいる姿を見て、「ああ、私は確かにベトナムにやってきている。戦後とは言っても、これは戦争中のそのままの情景ではないか」とも実感したものであった。それにしても余りにも激痛なので、食中毒の薬はないにしても鎮痛剤でも打ってくれないかと頼んだところ、それは左腕がしびれおちるぐらいの痛い注射であったが、それを打ってもらうと痛みは無くなった。しばらく眠ると、ようやく平常さをとりもどした。それはそれは嬉しかった。なにせハノイには仕事に来ているのに、即入院してしまうのでは余りにも情けない。回復すると、それからすぐに景観をほこる西湖の傍にある宿舎のタンロイホテルに入った。タンロイホテルは、ハノイでも最も風光明媚なホテル、玄関のふきぬけの庭には、たくさんの竹が植えられ、おりからの涼しい風の中で揺れていた。



次の日から連日40度近い猛暑の中で、教育省の成人教育局とのうちあわせにとびまわった。ハノイの町の様子で感じたこと、まず第一に、人々の交通手段が主に自転車。そして第二に町全体が何となく全く覇気がない。修理中の家とか建築中の家などなかなか目にすることができなかった。第三に物資は極めて不足しているようであった。これは1982年に中国を訪れた時に同じように感じたことであった。

しかし、タンロイホテルを出て西湖のほとりを歩いた時、ギターをかかえた一団の若者たちに出会った。彼らはベトナム戦争もほとんど知らない年代に見えたが、木かげで腰をおろしてお互いに身ぶり手ぶりで話のやりとりをしていると、彼らの歌や笑いや表情から、日本の若者と何のかわりもない心やさしく青春の不安の中で揺れる若者であることを知った。また激しい雨をもたらす黒い雲に追われて一軒の民家にかけこんだ時には、雨やどりをしているたくさんの農業労働者にに接したが、自然の中でたくましく働いているベトナムの人々のエネルギーを感じさせるものだった。
どこの国でもそうであるが、外国でいろいろとみたり感じたりすることは、ある意味では、群盲象をなでるような感があるが、すべてを知らなくても少なくとも実感だけでも偏見をもたずに、私はベトナムの人々や生活を実感してみようと考えていた。アメリカとの戦争後、ベトナムは現代世界から閉ざされて、ますます孤立した国になりつつあった。しかもボートピープルや、北側での日照りによる飢餓の報道などが行われると、ますます訳のわからない未知な世界となっていくのが常であったから。

ワークショップは10日間の日程で始まった。開催場所はハノイのゲストハウスということだったが、これはラオスとカンボジアのゲストを迎えるためのゲストハウスで、期間中には、東ドイツから帰ってくるラオスの留学生に出会うことがあった。開会式で、ベトナム側の紹介によると、ベトナムは独立以来、数々の識字教育で多くの問題が解決されて識字率も向上してきたが、今だに識字問題は国内に多数の課題をもち、小学校にはドロップアウトが多く、教育資材や印刷資材なども極端に不足しているとのこと。教材の内容にいたっては、ほとんど改善がなされていないようであった。

 それでは、まず実情から調査しようと、参加者三十人と共に全員でバスににのってハバン村(人口五千人)にむかった。この村はハノイから六十キロの西北にあり、紅河のほとりに位置する最も豊かな土地であるとの説明があった。途中田んぼの中に見かけたキリスト教の教会が、稲の収穫後の田んぼの前にガランと立っている姿が印象的であった。今は誰も使っていないのだろうか?宗教や信仰は今、どのようになっているのであろうか。

竹やぶに囲まれた小さな村に着くと、たくさんの子供たちが竹やぶの中からとびだしてきた。男性はベトナムの帽子を、女性はとんがり帽子をかぶってニコニコしながら、みんなで我々をむかえてくれた。特産であるうちわに我々の名前を編みこんでプレゼントしてくれた。小さなグループに分かれて、婦人学級や民家の中を視察してまわったが、ある婦人学級に集まった人々は総勢百名、中にはお歯黒をつけた婦人もたくさんいて、稲作の病気について、育児の方法、農業のかんがい設備などさかんに熱心な質問が続く。全て生活上の問題とからめながら字を学んでいる運動が行なわれているようだが、小冊子を手にしているような婦人は殆どいない。読み物などはないし、文字もよめるかどうかわからない。実態が知りたい。

この村はある意味ではモデル地区という。口ぐちに灌漑設備の必要なこと、新品種の作物の必要なことなどを問いかけてくる。中にはバイオガスの実際的な作り方についてくわしい質問をしてくる農民がいる。小柄ではあるが実にたくましそうな女性が歌を披露してくれる。それは戦争中、夫や若い男性が戦いに行って帰ってこないとき、村の女たちはたくましく働きながらも彼らの帰りをひたすらに待っていたという内容だそうだ。二十年前のベトナム戦争の悲痛な光景が横切ってくる。ベトナム戦争はこうしたたくましい女性たちによって支えられていたのであろう。ああ、現代史を私も生きている。学生時代には、学生運動に参加してベトナム反戦のデモなどをしていたのだから。

通訳をしてくれた文化省のある女性は、1968年、アメリカ軍による北爆で母親を失った話を詳しく話しは始めた。母が爆撃で殺されたときのショックは、痛切な悲しみとともに彼女をさらに強靭にさせたそうだ。彼女の話では、戦いにでかけた多くの男たちが、化学爆弾の被害を受けており、そのため結婚しても、その家庭からは多くの奇形児が生まれてきているとのこと。これが今非常に大きな社会問題になっているとのことであった。戦争がおわって12年、いまだに深刻な後遺症が続いていることを実感させられる。ハノイの戦争博物館で、化学爆弾の後遺症によって、生まれた奇形児のホルマリン漬けを多数見た。それはショックであった。あの広大なジャングルに潜む兵士を殲滅しようと、強力な化学爆弾が無数に使われたに違いない。

ワークショップの合間には、いろいろな招待を受けたが、その中のひとつのタイフォン寺は、仏教や儒教などの混合したお寺であり、随行した教育省のスタッフ一同が我々と一緒に静かに仏陀にむかって線香をあげて合掌する姿には、驚かされた。社会主義国では、「宗教はアヘン」という言葉が定着しているのではと思われたが、何か新しい自由な風がベトナムにも吹き始めていることを実感させるものであった。またある教育省の幹部女性は、密かにではあるが、彼女の夫が亡くなった後、生きることや死ぬことの意味について考える時、思想やイデオロギーだけではどうしても自分自身の人生の意味に納得できなかったことを述べていた。

このワークショップの中での実地訪問の中で見つけ出した問題から、様々な形態(フォーマット)をもつ教材が数々と作られた。それらはすべて農村の生活改善と収入向上をめざすものであったが、これらはすべて今のベトナムが切実に必要としているものであった。ワークショップの成果は大きかったのだ。

三度目の停電の中で私はまっくらになったハノイの町をぼんやりとながめていた。しかしこれがもし東京だったら、停電になるとあらゆるものがすべて止まってしまうのではないか。しかしベトナムでは停電しても、すべてはとまらない。すべてがうごいている。そんなたくましい実感も持った。

ワークショップの期間中、水上人形劇にも招待された。この人形劇は北部のデルタ地帯―田んぼや池や沼などの水のあるところで生まれた水上人形芝居との案内があった。日本ではとても想像できない人形劇の形態ということで、楽しみにして出かけてみた。大きなプールに水が張ってあり、その中央には大きな舞台がベトナムの伝統的な家のスタイルで作られている。

にぎやかな鐘や太鼓やうたが流れる中で、ベトナムの歴史劇や風物詩などが演じられ、たくさんの火を吹く龍や、黄金の大がめ、魚、水牛、農民などが実にユーモラスに水の上にうかび出て、ものすごい早さで動きまわる。水の中に潜っている操作者によって、人形は動くわけである。花火は水面で大きな音をたててはじけ、火を吹く龍はまるで本物のように水にもぐっては頭を出す。こんなユニークな人形劇が民衆の中に生き続けているとは、ほんとうに驚きであった。こうした豊かな文化が豊かに息づいているベトナム、これを見いる無数の子供たちの熱いまなざしをもっともっと広く世界に紹介できないかとも思った。その後、これは日本でも紹介された。

「識字者」とは従来、文字を読める人、字を書ける人と考えられており、文字が読めることと文化水準が同一に考えられているが、文字が読めなくても、文字が書けなくとも、豊かな文化のひろがりが現前として存在するアジアの豊かな空間を感じさせるものであった。

レセプションには、これまでの出版研修コースや文化関係者など八十名近くが参加して旧交をあたためたが、その中に第18回目に参加したブックデザイナーのトラン・クオット氏の顔もあった。彼はたどたどしい英語ながら満面にほほえみをうかべて、なつかしそうに手をにぎってくれた。そして大きな声で「サンキュー」といったあと急に姿を消してしまった。いったいどうしたのかと思っていると、しばらくして戻ってきた氏は、嬉しそうに「サンキュー・ベリーマッチ」といった。氏はサンキューという英語は憶えていたが、「ベリーマッチ」を言い忘れたので、それが気になって、友人の間を英語の単語を探してかけ回っていたということであった。実に素朴な人柄を感じた。ベトナムは竹と詩の国であると言われる。いたるところの田んぼの隅々に竹がうっそうとしげっていたが、田んぼで働くたくましい女性のように、何度折れ曲っても強じんで美しさを感じさせる自然と人々の素顔があった。

ベトナムのハック教育大臣との会見の時、ハック大臣はベトナムの今後の課題は、国を開放して、経済・文化・教育分野などで、世界各国と国際交流を積極的におしすすめたいということであった。ある教育省の幹部が言ったことを思い出した。「我々は敵のはっきり見える戦争にはうち勝ったが、敵の見えない経済戦争では敗北した。」

空港を飛びたつ時、見送りにきてくれたキン成人教育局長は、空港で自分でつくったという詩をたどたどしいながらもいっしょうけんめいに、我々に向って読みあげてくれた。その詩は惜別の詩で、友人との別れを心から悲しむ内容という、実に心がこもっていた。ベトナム語の発音が美しかった。どこの国の官僚が、自分にはお土産が無いからといって、詩を作って相手に贈れるだろうか?ベトナム人の高貴な資質に感動した。

二週間前、病院に運ばれた時、第一歩からつまずき、いったいどうなることかと暗たんたる思いになったのも今はすっかり消え失せていた。


再び機上からベトナムの山々と川をみた時、もっと豊かでもっと平和なベトナムが築かれる日の早いことを心の底から祈っていた。(1987年)

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