1998年5月、私はパキスタンのパンジャブ州の農村地域でノンフォーマル学校(青空教室)を200校設立する式典に出席した時、文部大臣の口から次のような祝辞を聞きました。「今日、我が国には10数人のカディール・ハーン博士のような素晴らしい核科学者が存在している。彼らの努力によって今日、我々は今日、素晴らしい科学技術を達成することができたが、識字教育とはこのような科学技術の発展にも大きく貢献するものである。識字学校がますます増えることによって、我が国の核開発もますます進展していくことを希望する。云々」 私はこれを聞き怒りが込み上げてきたのです。カディール・ハーン氏とはパキスタンの原爆開発の父とも言われる有名な科学者です。もし識字教育が「核開発」のような目的のために使われるものならば、その識字教育は完全に間違っているのではないか。」
そして、咄嗟に私はその為政者が発言した「識字」に関して、ヒューマン・リテラシーという新しい概念を考えついたのです。「リテラシー(識字)とは、人間の顔を持ち、豊かな人間性を有した哲学や方向性を持たなければならないのではないか。識字とはただ単に「読み書き計算ができるかどうかの技術能力」ではなく、豊かな人間性を有し、普遍的な人類の目的や内容をめざすものでなくてはならない。
人を不幸にし、人を殺す識字や知識がこれまでの歴史でどれだけ推進されてきたことか、そして現在もそれは続いていることか。文字によって表現される知識や技術は、人間のありかた全体に真摯なる責任をもたなければならない、識字とは人を生かし、争いをなくし、人間同士が信頼できる世界をつくるためにこそ存在しなければならない。」と考えたわけです。
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