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zoom RSS 「この子を残して」 長崎の原爆で亡くなった永井隆博士(1908−1951)の絶唱

<<   作成日時 : 2016/12/01 14:36   >>

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うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。

 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!


 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?


 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?


 ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。


 ――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。


放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。



 ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。原子病を怖がったのは言うまでもない。



 このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。
 この放射線の細胞破壊力はすばらしいもので、一定量ではガンのような病気を治すが、量を過ごすと健康な部分を病気に変えてしまう。こうして起こる原子病を防ぐために、私たちはいつも放射線の量を正確に測定していて、決して量を過ごさぬように気をつけている。だから今では、専門家が取りあつかうかぎり、放射線によって患者に迷惑をかけることはない。



 放射線は鉛のような重い金属でさえぎられるから、防護の目的にはよく鉛が用いられる。患者の体に放射するときには必要以外の部分を鉛板や含鉛ゴム板で被い隠す。放射線室の壁や床や天井に鉛板を張って外部へ漏れないようにする。配電盤の前に鉛ガラスの衝立を置いて技師を護る。患者の傍らについて診療する医師は含鉛ゴム製の前掛、手袋、長靴や鉛ガラス製の眼鏡でものものしく身を護る。しかし、こんな鉛の甲を身につけていては重くて身動きもできないから、完全防衛というわけにはゆかず、背中のほうとか、二の腕とか、もものあたりは普通裸で出ている。管球から出る主放射線のほうはそれで十分防げるが、後ろのほうや横から来る二次散乱線を防ぐことはできない。この二次散乱線の量は主放射線の量に比べたらいちじるしく少ないものではあるけれども、長い時間には大した量に達するわけである。たとい一日の勤務中に受ける放射線量は少なくても、毎日々々連続働いて五年、十年とたつうちには、肉体の組織がいつしか破壊されて、ここに職業病としての原子病が起こってくる。それは皮膚ガン、悪性貧血、慢性白血病、肺硬化、不妊などである。



 それでは長年月放射線室に勤めると必ず原子病にかかるかというと、そうでなくて、ある一定量以下の放射線を受けるにすぎないならば、いくら長く勤めても安全である。その一定量とは、毎日連続で、一日量〇・二レントゲン単位である。レントゲン単位というのはレントゲン線の量を測る単位である。欧米諸国では人道上から、この規約はよく守られ、放射線室勤務員は一日七時間以下の勤務、一週五日出勤、一年に一か月以上の転地保養を法律によって行なわされ、さらに特別危険手当とか、年金とかの優遇が与えられている。日本でも労働基準法の中に取り入れられてきたが、実行されるまでには、まだまだの感がせぬでもない。



 ところで私の場合であるが、なんと言っても戦争はあらゆる無理を国民一同とひとしく私にも強いた。この無理は避けられる筋のものではなかったし、国民の一人として喜んで果たさねばならぬ義務でもあった。私は、無理は百も承知の上で、全身全霊の力の限りを尽くして、その日その日の無理をとにかく片づけていった。――教室の若い助手は相ついで戦場へ出ていって、ついに帰らず、教室の人手は足りなくなって、私は数人分の役を引き受けることになった。大学の講義、臨時医学専門部の講義、いわゆる科学動員令による研究、結核予防のための工場、学校、同業組合などの集団検診、レントゲン診断、治療、ラジウム治療など、それはどの一つをあげてみても一人の医師、一人の教授に精一杯の役割となるものである。それを一人で果たせと命じられたのだから大変だ。精神ははやれども肉体は弱し、どうしても完全にはゆかなかった。その当時教室の看護婦たちが数え歌をつくって、私に聞かせてくれた。その中にこんなのがあった。――「三ツとせ。見れば見るほど好か男、部長先生の寝ぼけ面」……眠り不足と過労でやつれていた私を痛切に表現している。また「六ツとせ。無理な講義をせにゃならぬ、あれでは学生がかわいそう」……じっくり落ち着いた十分な講義をすることのできなかった私を適切に批判している。それから「十とせ。十でとうとうくたばった、ぜんそくおやじの冬支度」……とうとうくたばって、体の精力を使い果たし、たびたび倒れた私だった。


その数え歌を勤務が終わって、器械の掃除をしながら皆で合唱していた。「五ツとせ。いつも真っ暗な暗室で、かわいいあの子の声がする」とか、「八ツとせ。やぼな前掛けちょいとしめて、間接撮影のお嬢さん」とか、私たちの教室生活がそのまま歌われているのだった。
 私が数人分の役を引き受けさせられた一方、おし寄せる患者の群はまた激しく増してきた。あの徴用工という一団の人びと、それは商業や事務に半生を送ったひ弱い肉体の持ち主であったのに、にわかに工場に引っ張り出されて重労働をさせられたのだから、過労と生活の低下とで病人が相ついであらわれ、そのほか、一般の市民もまた過労と生活難とから特に胸の病におかされる者が多くなり、また放射線のすぐれた力が一般市民の常識となったために利用者もおのずから増す、といったふうに、いろいろの事情から、私の教室を訪れる患者はおびただしいもので、出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなるほどの雑踏であった。それを見ると、うんざりする気持ちと、さあやるぞという気持ちとが同時に起こるのだった。その患者さんをどうにか満足のゆくように診療してあげ、終わると、ああ、午後になると押しよせてくる集団間接撮影の数百人の団体! それが終わるころには日が暮れていて、一服の茶を看護婦長から振る舞われて、元気を一新し、自分の研究室にしずかに入るのであった。夜更けてわが家に帰る途で足が動かなくなり、べたりと路の上に座ったことが幾度あったろう。時には案じて迎えに来てくれた妻の肩にすがって、ようやく家の門にたどりつくこともあった。卵酒があたためてあったりした。……私は幸福だった。



 ――そんな調子だったから、私の放射線室に実際に働いていた時間は毎日十時間に達していたろう。一日〇・二レントゲン単位をずいぶん上回る放射線が私の肉体に射ちこまれていた。このまま数年続けるなら、恐ろしい原子病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さで、わかっていた。わかっていながら、相変わらず私は働き続けた。それは、国家が私に働くことを求めていたからでもあり、私に代わってその任に当たる専門家がほかになかったからでもあったが、私には、どんなにへとへとに弱り疲れていても、患者さんの顔を見ると診療せずにはおられぬ本能があった。いや、私はとにかく放射線の研究が好きで好きでたまらなかったからのことである。
 予期され、予防に心を用いられていた原子病は、ついに私の肉体に慢性骨髄性白血病および悪性貧血の形であらわれてきた。それは研究を始めてから満十三年の後のことであり、戦時中の無理な勤務満五年の後のことであった。決定的な診断がつき、まあ、あと三年は生きているだろうとの予後判定だった。ぜひもない次第であった。
 私は信頼する妻にその夜すぐ、すべてを知らせた。じいっと聞いていた妻は波立つ胸をおさえ、
「生きるも死ぬも神さまのみ栄えのためにネ」
と言ってくれた。

 二人の幼子の行末について相談をしたら、
「あなたが命をかけて研究なさったお仕事ですから、きっと子供たちもお志をついでくれるでしょう」
と言った。
 その言葉に私はすっかり落ち着きを取り戻した。これなら後に心をのこすこともなく安心して、倒れるまで研究室に勤められるぞ。


 あくる日から、さらに新しい元気を奮い起こして教室で働いた。まったく別人のように仕事に身が入った。捨て身でゆくとはこのことであったろうか? 戦争はいよいよ激しくなり、あいつぐ空襲に大学病院は患者で満員となった。私の教室はまるで野戦病院のようだった。夕方になると私の脚の力が抜け、筋肉がひきつったりして、階段を昇るときなどには看護婦さんから押し上げてもらった。それを見て笑う者は私自身だけであった。学生さんが走り寄って来て、私の手にもった参考書を代わりに運んでくれたりした。みんなにいたわられながら、私は楽しく忙しく立ち働いていた。


 ――そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定よりも早く動けない体となってしまった。――ありがたいことには、たまたま三日前に、山のばあさんの家へ行かせた二人の子供が無傷で助かっていた。
 それまで十数年かかって研究してきた多くの資料――戦争が終わったらまとめて論文として発表する予定だった、たくさんのレントゲン実験写真、ノート、図表などは、研究室の窓から赤黒い炎となってしばらく噴き出ていたが、明くる朝見たときには、すでに普通の灰となってしまっていた。私が、地獄へでも突き落とされたかのような絶望を抱いたのも無理のない次第であった。――が、その絶望は半日も続かなかった。私はまったく新しい希望をたちまち抱くことができたからであった。その新しい希望とは、……目の前にあらわれたまったく新しい病気、これまでどこにもなかった病気、古今東西の学者がまだみたことのない病気、私たちが医学史上最上の観察者として選ばれた病気――原子爆弾症! この新しい病気を研究しよう! そう心に決めた時、それまで暗く圧しつぶされていた心は、明るい希望と勇気にみちみちた。私の科学者魂は奮い立った。私の血まみれな、繃帯に包まれた五体は精気を取り戻した。私は焼け石に腰をおろしていたその場から文字どおり立ち上がった。


 おびただしい原子爆弾症患者、さまざまな症状、相次ぐ死亡者、それをなんとかして助けようと考えに考えを重ねる苦悩。医学者の生きがいをこの時ほどいたく感じたことはなかった。杖を頼りに不自由な負傷の身をもって、山越え野行き川を渡り、患者を訪ねてまわったあの二か月。それもついに私自身が原子爆弾症のため危篤におちいり、そのため打ち切らねばならなかった。


 回復期の私の病床に伝わったのは、原子野住居ができるかどうか? という人びとの不安に満ちたささやきであった。どこからともなく、七十五年間は人の住めぬは言うまでもなく、草木も生えぬといううわさが伝わっていた。私は寝たまま考え続けていた。爆弾から降った放射能粒子や、地面の原子が得た放射能がそんなに長い期間残っていようとは、どうしても考えられなかった。そんな放射能はすみやかに減ってゆくはずである。理論上一応はそう考えられても、何しろ最初の出来事だから、実際に験べてみなければ確かなことは言えない。一日も早く実験測定をしてみたい。みたいとあせるけれども、情けないことには器械が一つ残らずなくなってしまっていた。たとい器械はなくとも験べることは験べねばならぬ。私は爆心地にころがるガラスを拾って験べた。ガラスは放射線を長く受けると色が変わるものである。


私は牛乳びんがうす紫色に変わっているのをいくつか見つけた。それは爆心地に近いほどいちじるしかった。そこで爆心地にはかなり強い残存放射能があったことを推しはかることができた。また、みみず・あり等の土の中に住む小動物に気をつけた。土に大量の放射能があれば、こんな小動物は死滅してあらわれないはずである。しかるに、爆心地で七週間後にたくさんのありの列が見つかった。三か月後には、みみずもたくさん見つかった。こんな小動物が生きているのだから、大きな人間の生命をおびやかすほどの放射能はまずあるまい、と推論した。原子野には復員者たちが焼け跡をわずかに片づけ、小屋を建てて住み始めていた。私はその小屋を訪ねて、健康状態を調べた。爆裂後二週間くらいはたしかに危険であったが、その後はあまりひどい影響はなさそうであった。こんなふうにして私はできるだけのことをした。しかし、なんと言ってもありがたかったのは、他の大学から同学の学者が器械をそろえて研究に来てくださったことであった。石川博士や篠原教授のおかげで正確な結果が得られた。二人の幼子もたびたびの採血試験などに痛みをこらえて、貴い材料を提供してくれた。――こうして原子野住居差し支えなしとの結論はいち早く得られ、私たちは郊外の村々に避難している市民に向かい、すみやかに焼け跡に帰り再建にとりかかりなさい、と呼びかけることができたのだった。


 こうして当面の二つの仕事は片づいた。熱はまだ続いていて、三十八度を越す日も多かったが、とにかく杖を頼りに歩くことはできた。そのころ私は、戦火に滅び亡き数に入った教え子と妻をとむらうため、半年の喪に服して、髪を刈らず、ひげをそらず、入浴せずにいたため、多くの知人から変わり者と思われていた。私の小屋は妻の骨を拾った焼け跡に建ててもらっていた。そこからは大学の焼け跡が目近に見えていた。私は朝夕そちらを向いて祈りをささげて暮らした。骨を捜して歩く老人のすがたが稀々に見えるだけだった。
 大学の仮学舎が大村市で開かれた。汽車で二時間かかる出勤は、辛かった。講義中に脂汗が出るし、息は切れるし、元気な大声は出ないし、学生に迷惑をかけるばかりだった。講義中に四度も五度も腰をおろして、息をととのえねばならなかった。それはひっそりとした講義だった。わずかな生き残り学生――どこかに生々しい傷あとを見せている。話す私の顔の右半分も傷あとだらけだ。しかし、ほんとうに心にしみる授業だった。多くの同僚は講壇で死に、多くの学生もまたノートをとりつつ果てた後、こうして私たちだけが、真理探究の道をさらに続けてゆく……。それを想うと、おろそかならぬ使命がお互いに感じられるのであった。
 講義がすんで医局へ帰ると、全身に張りつめていた力がすうっと抜け、楽屋に放り出された浄瑠璃人形みたいに、腰掛けの上にのびてしまう私だった。


 そうこうして講義や教授会に出ているうち、しだいに体の力がなくなり、とうとう七月の末、長崎駅で倒れてしまった。夕方ようやく小屋にたどり着いたが、それっきり床に就く身となり果ててしまった。それから今日まで病勢は順々に進んできた。今では原稿用紙をとってもらうことさえいちいち人に頼まねばならぬほどだ。それで患者を診るどころか、顕微鏡をのぞく力もない。しかし幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。日々の経過、自覚症と病変の関係、治療法の効果判定など、じっくり落ち着いて観察したり考えたりできるので、とても都合がよい。内科の影浦教授の指導で朝長医学士が治療に当たっているが、患者私について、医学者私が主治医と大いに論戦をたたかわすのは真に愉快である。さらに病理解剖学の若原助教授が加わる場合には、一層真剣味を帯びてくる。私の血液標本はあらゆる種類の正常および病的血球を含んでいるので、ちかごろ教科書のない学生諸君にとってはすばらしい教材となる。朝長君は採血のとき余分に多くの標本を作って、それを愛する学生諸君に差し上げている。寝ていて講義に出られない私にとっては、そのことがせめてもの学生諸君に対するおわびとなるであろう。


 私の皮膚は白血病に特有の青さで、見ただけでも気味がわるい。脚も腕も細るだけ細り、これ以上は骨が邪魔になってやせられないところまで来ているから、もうやせる心配はない。若くしてバスケット・ボールの選手をしていたころには、身長一七一センチ、体重七一キロという好い体格だったので、久しぶりに会う友だちは一目見ただけで涙ぐむ。

 全身やせ細っていて、腹だけがこれ以上は皮が伸びないところまで膨れている。なんのことはない。腸満にかかった青がえるだ。腹のまわりが、へその高さで九一センチ、ちょうど妊娠十か月目のおなかの大きさにひとしい。これは脾臓が途方もなく大きくなっているからである。脾臓はもともと手のひらより小さいくらいのものなのだが、私の腹の左半分全部を占領してまだ余り、へそを越して右のほうへかなりのさばり出ている。この張り切れるだけ張り切った脾臓に、外から何かちょっと一打ち当てると、たちまち裂けて、内出血を起こして死なねばならぬ。まるでダイナマイトを腹の中に入れているようなもので、油断ができない。


 子供は親にすがりつきたがるものである。学校から帰れば、タダイマッ、と叫んで飛びつきたかろう。しかし私に飛びついたら、脾臓はたちどころにパンクするに決まっている。それで子供たちは主治医の朝長先生から「お父さんのそばへ寄ってはいけません!」と言いつけられているのだ。子供たちはこの言いつけをよく守り、そばへ寄りたい、じゃれつきたい、すがりつきたい、甘えたい想いをおさえ、いつも少し離れて私と話をする。私のほうも、世の常の父親のように、この子を抱き上げたり、ひっくり返して押さえつけたり、くすぐったり、キャッキャッ言わせて遊びたい。けれどもそんなふうにしている子供がいつしか慣れて、こちらがうっかり眠っている時などに、いきなりドンと飛びついたり、寝床のすぐ傍らでふざけ合って私の上に倒れかかって来ぬともかぎらない。それを防ぐために私は心をことさら冷たくして、寝床のまわりに本を積み、薬壜を並べて、愛情を隔てるバリケードを築いている。
 ――カヤノが遊びから帰ってきて、私の眠っているのを見定め、こっそり近寄って、お父さんのにおいを求めたのは、こんなわけがあるからであった。


 私も……わが子のにおいを久しぶりに味わった。白血病といえば、なんだか真っ白い血が冷たく流れているような気がするが、その私の血管の中に久しぶりに熱いものが流れ始めた。私はぐっとこの子を抱きしめたくなった。親犬と子犬とが遊ぶように、どこでも構わず、かみついたり、なめたり、たたき合ったり、ゆさぶったり、思い切り体と体とぶっつけ合って、時のたつのを忘れてみたい。そうしたらこの子はうれしさに息もつまり、笑いが重なって身もだえするであろう。脾臓が裂けるなら裂けてもいいじゃないか。この子がほんのひと時でも私から父の愛を受けて悦んでくれたら……。だが、私にはそれが許されない。一月でも、一日でも、一時間でも長く生きていて、この子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時期を縮めてやらねばならぬ。


 胸の中に桜島の煙のように時々ぐぐっと噴き上がる愛情をおさえ、私はことさら冷たく子供を遠ざけておらねばならぬ。ぐっとおさえると、かえって大きくたぎって噴き上げる、まくらもとの火鉢の湯沸しの湯気にも似た骨肉の情である。もう一人の親――母がおりさえすれば、この子も父をあきらめて、その母にとりすがるのであろうに、その母は亡く、母のにおいの残った遺品もなく、面影をしのぶ写真さえ焼けてしまって一枚もない。
 私がやっぱり眠ったふりをしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。
 何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむように、カヤノは小声で、
「お父さん」
と言った。

 それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。




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