パキスタンで演劇化された“さびしい狐”のコンキチ

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月日の過ぎるのは夢のまた夢。

コンキチ」の演劇の話しの発端は1998年のある日、パキスタンのイスラマバードの首都県庁(CDA)で臨時職員として働きながら演劇活動を続けていた28歳のアッサラオ君が、ウルドゥー語訳の私の「コンキチーさびしいキツネ」の作品を是非自分の演劇集団で上演したいと言ってきたことから始まりました。

彼はこの物語を「自分の主宰している演劇集団でドラマ化したい。そのためには自分の手で脚本を書き、そして自分はコンキチの役をやりたい」と並々ならぬ熱意で訴えてきたのです。私は彼の真剣な態度に驚くと同時に、彼の顔立ちがなんとなくキツネに似ているので、これはひょっとするとおもしろいドラマになるかもしれないと快諾したのでした。パキスタンには一般的に余りおもしろいドラマがなく、もしこのユ-モアにあふれしかも深刻な物語を上演できたら、ひょっとすると国際水準の舞台ができるかもしれないと、彼の演劇活動を思いきり激励することにしたのです。

この物語のあらすじは、山の自然環境がどんどん破壊され、子ギツネのコンキチは狐をやめて人間になろうと母に懇願するのです。すると母親は「おやめ。コンキチ、これまでにもたくさんの子ギツネが人間になろうと山を下っていったけど、誰も帰ってはこないんだよ。人間たちがいい暮らしをしているとは思えない。」と説得したのです。
しかしコンキチは山を見限って、特別の術で人間になって、都会の会社で働き始めるのです。ところがその会社は毛皮会社。ある日、会社の倉庫で、自分の友だちがたくさん毛皮となってぶら下げられているのを見て大変な衝撃を受けるのですが、毛皮の在庫がなくなってくると、社長命令で鉄砲をもって故郷の山へと向かっていくのです。そして母を撃ち殺してしまうという悲劇です。
このKONKICHI の作品をオリジナルで書いたのは35年も前のことです。1989年には英語版の The Legend of Planet Surpriseの中に収められていますが、ベトナムは1989年に翻訳刊行を行い、1995年には、パキスタン国立図書財団から、国際交流基金の助成で、英語版からウルドゥー語で翻訳出版されています。アジアの国々では28言語に翻訳されています)

しかしながらよく考えてみると、ここはパキスタン。・・・・通常パキスタンでは単なる話しや夢だけのことが余りにも多く、演劇活動の具体化というものを彼が果たしてできるかどうか半信半疑だったのです。しかし同時に彼を少し試してみたい気持ちもあったのです。 ところが驚くことに、彼は2ヶ月後には自信にあふれた表情でウルドゥ語のシナリオを手書きで書いて持参したのです。そのため私は早速友人のショーカットにコンピューターでウルドゥー語で打ち出してもらったのです。

ショ-カットは打ち出したシナリオを読みながら一言、「これは素晴らしい!しかし・・・これを成功裏に上演するには、是非、パキスタン国立芸術評議会の主催にした方がいい。」としきりに私に勧めたのです。そこで早速、私はパキスタン国立芸術評議会の旧知のラスール会長に公演依頼の手紙を送ったのでした。ラスール会長は日本で言えば文化庁の長官にあたるような人です。

しかしそれから何か月たっても評議会からなんの音沙汰もなく、ときどきラスール氏にそれとなく聞いてみても、現在関係者で相談しているというだけでした。私はこれはおそらく作品の原作がパキスタン社会に合致していないか、あるいはアッサラオ君のシナリオの力不足などがあって、彼らになんらの興味も起こさなかったのだろうと思っていました。一方、アッサラオ君は、「評議会の協力があろうとなかろうと関係ない。自らが書いたドラマを自らの手で舞台を取りし切りたい。」と「さびしい狐」の主人公役―コンキチを演ずるリハーサルを始めたのでした。

そしてときどき我が家にやって来ては、大広間できつねの役を演ずるリハーサルを何度も繰り返すのでした。彼の声は、盗賊が住んでいるというマルガラ山に向かって響いていました。
「コーンコーン・・・コーーーーン、コーン・・コンコン・・・コーーーーーーーン」

しかし彼の劇団は人から聞くところによると零細集団らしく、彼以外に劇団員がリハーサルに来ないのには少し不安にも感じられたのです。首都県庁に勤めていた彼はなにか職場の者とうまくいかなかったらしく、そのうち失職してしばらくはなにもせずに暮らしていました。しかし会うたびに彼はいつもコンキチの舞台のことを話しつづけていました。

彼はパキスタン人の顔というよりは、トルコ系の血筋を引いたような独特の風貌を持っていました。時々、彼は素晴らしい笑顔を見せたり、急にニヒルな顔つきをしたり、あるいは思いつめたように話し始めたり、俳優としての才能を遺憾なく感じさせるような才能を持っていたのです。 彼の腹の奥底からしぼりだす声でマルガラ山に向かって鳴くコンキチの声には、私も大いに感動したものでした。彼自身は、主役のコンキチは、この世でかれ以外にはいないとばかり、彼のためにこそこの舞台が用意されていると考えているように思えたのです。

半年のうちに、彼自身は余りにもこの演劇に没頭したので、ときどき我が家に電話してくるときにも「アイアム コンキチ」といってしゃべってくるのでした。 しかしかれのリハーサルをみているうちに、彼は頭の中に余りにも観念的なキツネを作り出しているような気がしたので、彼に自然のキツネの性格を十分参考にしたほうがいいのではないかと進言し、一緒に近くの動物園にキツネを見にでかけたこともありました。しかし、動物園のキツネは人間たちにおびえてとうとう穴から出てきませんでした。それでもジャッカルや狸を見たりして勉強に励んだのでした。



そのうち彼は仲間とリハーサルを行うために広いスペースを必要としているというので、またしてもショーカットに頼み、首都圏のある大学の講堂を無料で毎週確保したのでした。そして第1回目のリハーサルを彼が開くというので、夕方その場所にでかけてみるとガランとした大きな講堂で彼を交えて4-5人の演劇人が大声を出してリハーサルを行おうとしているところでした。

私は自分で書いた物語が舞台化されるので多少は喜びを感じていましたが、 内心では私の物語が上演されようとされまいとそれはどうでもいいことでした。ただ彼が余りにも熱心にコンキチの舞台のことを話したので、とにかくこうした舞台がこの国ではいったいどのように展開してゆくのか、それに興味をもったのでした。 

だだっぴろい講堂で行われたリハーサルは余りぱっとしたものではなく、夕方の闇の中に消えてしまいそうでした。ただ彼ひとりが薄暗くだだっ広い講堂のステージで、きつねの鳴き声を出して演技するのがとても印象的でした。しかし舞台化のための予算的な裏づけもなく、また母親役など重要な配役も全く決まっておらず、彼の零細演劇集団で果たして舞台化出来るかどうか、一抹の不安をこのリハーサルで感じたのも事実でした。

そうこうしているうちに、ちょうど2000年9月25日の夕方、突然ショーカットから電話が入ったのです。彼が息せき切って言うのには「・・・・明日の晩、ラワルピンディのリヤカットホールで芸術評議会の主催で「さびしいキツネ」の上演が行われことになった。」というのです。

 「ええっ!いったいどういうことですか?」 
私は大いに驚きながら、彼から事の仔細を聞いてみると、この舞台はパキスタンで広く演劇活動を行っているDr.バカールギラ二という国立演劇学校の代表の手によるものだというのです。彼はパキスタンでは著名な演劇人でテレビの連続ドラマなどでも大変な成功をおさめている人だと言うのです。ショウカット氏はとても喜んでいるように見えるのです。

しかし彼らの舞台でのキツネのコンキチ役はアッサラオ君ではないのは確かです。ただ重大なことは、この舞台で数ヶ月前に評議会に依頼文を送ったときに同封した彼の脚本が、なんの相談もなく勝手に彼らに使われているように思われたのです。まさか国立芸術評議会ともあろうものが、我々になんの相談もなく公演を行うことはないと思い、ショウカット氏には「もし、それが同じ脚本であるものなら、原作者の私としてもそれは絶対に認めません。許可しませんからね。」と強い調子で話しました。

それから私はすぐに評議会の事務局長であり著名な文化人としても知られているファキ氏に電話して事の内容を調べてくれと頼みました。すると彼は、驚いた声で「この舞台の内容や日程などはまだはっきりしていないと思うので、大至急バカール氏と連絡をとってみるというのです。それで私もすっかり安心してアッサラオ君に電話をすると、彼はいかにも安堵した様子でした。コンキチは彼しかできないと思っているのですから。

 ところが翌朝のこと、突然泣きそうな声でアッッサラオ君から電話が入ったのです。彼の友人から電話が入り、今日の朝刊の広告に「明日、リヤカットホールで「さびしいキツネ」の演劇が行われるという記事が掲載されていると聞いたというのです。私もびっくり仰天し、すぐにNEWSという代表的な英字新聞を調べてみると、確かに新聞の2面には「奇妙な狐」というタイトルのドラマが評議会の演劇アカデミーの手で上演されることが大きく新聞広告されているのです。「さびしいキツネ」というタイトルはウルドゥー語では「奇妙なキツネ」という言葉に置き換えられていたのです。そして国立芸術評議会の演劇学校が主催するというものでした。

そこですぐにファキ氏に電話をすると、かれはすぐに当の責任者のバカール氏を呼び相談したいからすぐに評議会に来てくれというのです。私は我々を全く無視したかれらの海賊行為に心底より頭にきたので、相談するというよりも評議会に抗議にでかけることに決めました。パキスタンでいつも誰かが新しいアイデアを出すとすぐに誰かがそれを盗んでしまう悪い習慣があり、かれらをそれをハイジャックすると言っているのです。もちろんこの裏には著作権の問題や悲しんでいるオリジナルの作者がいるわけですが。

国立文化財研究所のムフテイ氏は、かって膨大な時間と労力をかけて製作したシルクロードの音楽テープが2-3日間でコピーされてカラチの会社から売りに出され大変な損失を被ったと嘆いていました。それだけに短気な私は「とにかくけしからん。とにかくけしからん!これでは本物のコンキチ役のアッサラオ君の努力が無になって可哀相だ。」と思いました。

そこで私はこうした時には、普段着ではなくて、服装にも少々威厳も必要だと思い、赤いネクタイと黒スーツ姿でびしっときめてでかけることにしたのです。特に著作権とか権利の問題の時には、外国人になるのが一番ですからね。 そのときウルドゥ-語の大家の東外大名誉教授の鈴木先生も我が家に滞在中だったので、事の仔細を先生に話し、二人で一緒にネクタイをしてでかけることになりました。氏はアッサラオ君のウルドー語のシナリオを読んで賞賛していたこともあったので、作品についてはいわばお墨付きともいえるものでした。


家から車で5分ぐらいのところに評議会の建物がありました。国立とはいえ古く煤けた2階建ての芸術評議会のファキ氏の部屋に入ると、彼はいつものように実に愛想よく我らを出迎えてくれました。そしてすぐに評議会の会長であるラスール氏とバカール氏とみんなで交えて相談をしようというので、そこで皆なで1階のラスール氏の部屋に集まりました。

バカール氏とは初対面でした。彼の物腰は実にていねいでした。長身で鋭い文学者のような姿格好をしており、大きな目は輝いていました。彼のアシスタントであるという中年の女性は才能あふれた女優だということでしたが、とても上品そうに見えました。「うーん、これはちょっとアッサラオ君の姿かっこうと随分違うなあ。」 と思ったのです。

 開口一番、バカール氏は静かな口調で、「あなたが書いた「コンキチーさびしいキツネ」の物語はとても感動的で素晴らしい。」とアッサラオ君が書いたシナリオをみんなに見せながら、まず思いきり褒め称えました。やはり彼らはこれをもとに演劇を開始しようとしていたのでした。実にスマートに話し合いが始まったので、これではこちらが抗議する暇もありません。しかし私は厳かな声で 「この作品の原作は私が書いたものですが、シナリオはアッサラオ君が書いております。私としてはこれまでコンキチーキツネの主役はアッサラオ君にしたいと思ってきました。そして準備をしていたのです。」 

 と短刀直入に切り出したのです。すると彼はすぐに「わかりました。今晩公演は行いません。今後はみなさんとゆっくり話しをしながら舞台化を始めたいと思います。ついては皆さんと一緒にこの演劇のワークショップをやったらどうでしょう?」と再び静かな口調で語りました。話がこちらの了承もなくどんどん進んでいくので「もちろん、アッサラオ君も交えてですね?」「もちろんです。」と彼は快諾したので、私は彼の真摯な態度に感心し、それでは2日後にラワ-ルピンデイでみんなでよく打ち合わせを行いましょうということになりました。


 2日後、ラワ-ルピンデイのリヤカットホールという大きな劇場の中に位置している国立演劇学校に、イスラマバードからは、私と鈴木先生、ショーカット氏(国立図書財団)と旧友であるシャー氏(出版社経営)の4人で第1回の打ち合わせにでかけました。到着するとすぐにバカール氏とファキ氏が我々を出迎えました。そして会長のラス-ル氏も我々を待っているというのです。いったいなにごとかと思い、会長の部屋に入ると彼は大きな体で丁寧に挨拶し、鈴木先生もしきりにウルドゥー語の力を存分に試すかのように 流暢な挨拶を何度も繰り返していました。

会長は明日からスリランカへ行くという忙しいときになんでわざわざここまでやってきたのかとも思いましたが、2階の演劇学校で最初に挨拶をしたあとすぐに引き上げていきました。しかし彼らは内心では評議会の演劇学校が行った海賊行為が大変気になっていたようです。
演劇学校の2階の広いリハーサルには才能があふれるような約25名の若い男女の俳優が車座になって座っていました。未来の俳優を目指すだけにかなり個性的な男優、女優が集まっていました。もちろんわれらのコンキチ、アッサラオ君の姿もその中にありました。ここの修了生であるという彼も、当然参加を呼びかけられたので、イスラマバードから中古のオートバイを飛ばしてやってきたのです。

 それからバカール氏がこの物語と演出について丁寧に話をしたあと、彼は私にもこの物語について演劇についての構想を話してほしいと頼んできました。そこで私は、その昔、ミュンヘンの安アパートの屋根裏部屋で書き始めたときのエピソードや物語の背景や大筋をていねいに話しました。するとみんな大いに感動したらしく、しきりに大きな拍手をし、大きな花束まで贈呈してくれたのです。
 いくつかの質問が始まりました。

 「あなたはなぜキツネを主人公にしたのですか?」
 「この物語であなたはいったい何を伝えようとしているのですか?」
 「この物語では人間よりも動物が優れていることをいいたかったのですか?」 などなど。
 いろいろ変わった難しい質問もたくさんありましたが、私のわけのわからない感情のこもった英語の話し振りになんだか十分に納得している様子でした。

それからバカール氏が自信たっぷりに この舞台の構成と演出について話し始めると、突然アッサラオ君が立ち上がって 「いや、僕の考えは全く違います。この舞台はこうでなくてなりません。こうでなくては?」
 と彼の描いた舞台のスケッチの上に、新しいスケッチを書き加え始めたのです。

バカール氏はいかにもこれを苦々しそうに見つめています。「うーん、これではなかなか先が思いやられるな。二人のコンキチのイメージは全く違うのだからな。どういうようにこれから調整しよう?」と考えていると、バカール氏がコンキチ役に決まっている若い個性的な男優に演技を始めるように指示したのです。バカール氏は、彼らの俳優の演技を見せれば我々もすぐにそのレベルの高さに気付き納得するとでも思ったのでしょう。自信ありげにコンキチ役が舞台に登場し、さあ演技が始まったのです。

それはコンキチが会社員となり働き始めたときのシーンでした。しかしかれの演技は大声を出して泣き叫ぶものの、いかにもステレオタイプでなんの感動も感じさせない表面的なものでおもしろいものとは全く思えませんでした。そこで私はアッサラオ君に 「さあ!君の出番がやってきた。思いきりやりたまえ!本物のコンキチの出番だ」と肩をたたきました。


 アッサラオ君の演技は期待していた通り、オリジナルの原作に書かれたコンキチの存在にリアルに迫ると同時に、今彼が置かれている絶対絶命の立場もよく表現していました。ですからこの真剣さがみんなにも伝わっていきました。もっともこの演技をする前に、アッサラオ君に「いいかい、あまりしゃべらず、沈黙と動きでコンキチを演技したら。」と伝えていたのです。

パキスタン人の俳優は余りにもしゃべりすぎますから。しかしどちらの配役を最終的に選択するかはなかなか微妙な問題でした。原作者である私の意向を貫くか?あるいは演劇人のプロであるバカール氏の選んだ俳優にするか、結局はそのどちらかを選択しなければなりません。その日は最後までアッサラオ君はいかにも深刻な顔をして考えこんでいました。

 最終的な打ち合わせの結果、10月10日から3日間合同ワークショップをかねたリハーサルをみんなで行い、その席上でだれが主役になるのか決めることにしました。帰りの車の中で、鈴木先生が「これではなかなかまとめるのが大変だね。」ともらしていましたが、でもよく考えてみると、私はこうしたプロセスこそがこの物語にふさわしいのではないかと思っているのです。
ショーカット氏は、評議会の演劇学校の方が予算的にもはるかに力があり、著名な演劇人であるバカール氏の舞台監督が絶対に必要でこの際、アッサラオ君には引き下がってもらった方がいいと言っていましたが、2人のコンキチの演技を見てからは、「やはり本物のアッサラオ君のコンキチの方が素晴らしい。」と手放しで誉めていました。

そこで私は皮肉的に「ショーカットはいったい何に魅かれているのだろうね。国立演劇学校の予算か、あるいは著名な演劇人のバカール氏か、あるいはそれとも本物に見えるアッサラオ君のコンキチの演劇か。」


 3日間のワークショップの初日には、まずバカール氏による国立演劇学校の演技が始まりました。総勢25名を率いての演劇集団です。そして二日目は零細集団のアッサラオ君があちらこちらから無理して集めた約10名による演劇集団の演技が行われました。アッサラオ君もさすがに意地がありますが、俳優はあちらこちらから探してきたというような衣装です。

しかし演劇学校の演技を見ると、みんないわゆる優秀な演技を披露していましたが、いわゆるソツがなく演技になにか心をうつものがありません。特に総監督のバカール氏自身が自らコンキチ役をやることに決めて、彼がコンキチをやることになったその演技はあまりにも大げさで観念的なのです。ギリシャ悲劇と間違えたかのような表情をしたりユーモアもおもしろさも全くないのです。演技で表情がおもしろくないということは致命的ですね。演技はそれで死んでいますからね。

それに舞台の最初に、山に住むキツネに人形を使ったりしてなんとなく現代劇と人形劇を折衷したような奇妙な演劇になっているのです。確かにこれは「奇妙なキツネ」だ。これは「さびしいキツネ」ではない。と思いました。しかしスタッフのなかには、毛皮の店員役をやっている実に才能のあるおもしろい若い俳優がいて、一言しゃべるごとに、一歩歩き出すごとにみんなを腹をかかえて笑わせるのでした。

そこで私は、この舞台の中での重要な配役として、かれを社長役にしたらと進めたのですが、社長役をやっていた俳優はこれが一番いいと言って渋ったので交代は実に大変でしたしが、結局は交代してもらいました。まるで株主総会でも開いて会社の社長をそのイスから引きずりおろすようでした。しかしその結果は大当り。 特にコンキチの物語のなかで、キツネが山から下りて会社に入るために社長面接を受けるところは、大きな山場ですからね。彼が深刻な笑いを創りだしのは良かったですね。それはユーモアと厳しい現実の中での葛藤というキツネにとっては大きな演技になるわけですからね。

一方のアッサラオ君の演劇は実にシンプルなものでしたが、コンキチの原作を実によく感じさせるものでした。ことに鳴声などは私がイメージしていた通りぴったりでした。もっとも彼は2年間、我が家に来てはいつも鳴いていたのですから。

・・・・・そしてわたし私が最終的に考えた案は、キツネの主役はバカール氏ではなく、アッサラオ君に、そして社長は演劇学校の若者に、そしてお母さん役は演劇学校の中年の女性にと折衷したグループを構成したらどうかと思って進言したのですが、バカール氏はどうしても承諾しません。彼にふさわしい配役がないのです。彼は総監督で全体を見てくれるか、あるいは毛皮を売る店員になればいいと思ったのですが、そうもいきません。大苦笑です。そして仮にバカール氏が監督でやってくれたとしても「キツネ」のイメージはアッサラオ君とは全く異なっているし、どうしようか?と考えに考えたとき、

「あっ!そうしよう。下手な折衷をしないでそれぞれが自分のイメージした舞台をやればいいのだ。」と。 そしてバカール氏とアッサラオ君を呼んで、「どうだろう!それぞれが自分のイメージで舞台を構成しようとしているのだから、無理に折衷せずにそれぞれが自分のイメージで仕事をするべきだろう。それぞれの劇団でコンキチをやったら?」とまるでインドとパキスタンに介在する難しいカシミール問題を裁定するかのように進言したのでした。

 するとバカール氏は、いかにも苦々しげに聞いています。彼は「国立演劇学校の演技こそが、ワークショップで最終的に選ばれるのが常識」と確信していたからです。アッサラオ君のような零細集団とは訳が違うし、格も全然違うと思っているのです。一方、アッサラオ君は大満足でした。自分の主張が通るし、自分が主役になって演技ができるのはこの上もない喜びですからね。 

そうした2人の表情を見て、私は「それではこの舞台は3日間開催することにして、そのうち最初の一日をアッサラオ君の零細劇団に、二日目と三日目を国立演劇学校がすることにしたらどうだろう?同じ物語をそれぞれが違うイメージで舞台化することは、世界のどこでもよくあることですからね・・・」と裁定したのでした。バカール氏も彼らの演劇が二日間なるのでやっと安堵したのでした。

そして2000年11月11日から3日間にわたって「コンキチーさびしいキツネ」の舞台が行われることになりました。2人とも演劇集団を率いての競争ですから必死です。2人ともリング上でにこやかに握手しても、ゴングが鳴ると同時に火花を散らすボクサーのように見えます。
「・・・・・ああ、疲れた。下手をするともう一つ別のカシミール問題を作るところだった。共存共栄こそがいいんだよ。」 と言いながらも私は一瞬「これで果たしてこれでうまくいくか」実のところ非常に心配だったのです。

案の定、2-3日するとすぐに国立演劇学校のバカール氏から電話がかかってきて、「実は11月11日の初日が、アッサラオ氏の舞台ということになっているが、初日は、国立芸術評議会の長官や日本大使も出席することになるから、初日はどうしても国立演劇学校がやらなければいけない。」と実に思いつめたような低い声での電話でした。

私もその要請の意味はすぐに了承して、「はい。それはそうでしょう。あなたが働いている国立演劇学校の立場もよく理解できますから、アッサラオ君に依頼して、初日と二日目は演劇学校にしてもらいましょう。三日目はアッサラオ君に依頼してみましょう・・・・・」と答えたのでした。
しかし、このことをアッサラオ君にしゃべると彼は、驚いた声を出して、「エエッ!僕の方はたった一日だけだから初日だけだと決めたのに・・・・三日目の一番最後ではだれも客が来てくれないのでは?」といかにも不満そうな声で言うのです。そこで困った私は咄嗟に、「なあに、アッサラオ君!日本ではね。一番最後の出し物は、酉(とり)と言ってね。一番すごい出し物があるという習慣があるんだよ。つまり酉(とり)になって一番いい出し物を演じて見ないかね。最後の出し物をみんな見にくるんだから・・・・」と説得しましたが、ここはパキスタン。日本と違って「酉」だと言ってもなかなか彼は承諾しません。

そこでお客さんは最後の日に一番入るのではないかという私の説得で、とうとう彼もしぶしぶ同意してくれた訳でした。そしていよいよ待ちに待った11月11日「コンキチ」のオープニングの日がやってきました。それから3日間にわったてリアカット劇場で行われた演劇は、おそらく後世に残るぐらいおもしろく刺激的なものでした。 (続く)

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