非現実の夢想家ー核へのノーを貫くべきだった!と村上春樹

原発核を平和利用として考え、戦争核と完全に切り離した結果がもたらした惨禍を、思想家や文学者はいかに解釈しているのだろうか?村上春樹が、バルセロナのカタルーニャ国際賞の受賞スピーチで、
「日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであったと述べたというが、日本人というよりも村上自身はこれまでどうだったのか?彼は、彼の作品の中で、これまで原発や広島を一言でも述べたことがあるのか?すでに起きた既存事実を評論家よろしく自然エネルギーの時代だとステレオタイプ的に解釈することは誰でもできる。またこれらからの本の宣伝としても、いかようにも解釈できる・・・つまり世界の潮流が定まったとき、あるいは評価は、だれでも大声をあげて反原発や脱原発に賛同することができるのだ。自らの立場は抜きにして・・・・


日本人自身は、自らが体験した広島の原爆核に対する平和運動などでは、先陣を切って世界中で反核を推進してきたが、しかしヒロシマは原発とは全く結びついていないし、国内にはその反省などは全くない。考えてみれば広島の瀬戸内海のすぐ先にある祝島の原発建設計画とノーモアヒロシマとどのような関係があるのか、まだそれを誰も述べていない。驚くことだ。こうした思考や想像力の実態とはいったいなんであるのか?


佐藤栄作首相の沖縄返還の功労に対して、ノーベル賞を受賞したというのはお笑いものだっだが、彼は沖縄返還にあたって「小骨一本抜きません。国民には嘘は言いません」といいながらも、その陰では、非常時にはアメリカと原爆の本土への持込などの秘密協定を結んでいたのは周知の事実・・・これは民主党が政権を得たとき、その内実が明らかになったものだが、その後、民主党はアメリカに気兼ねして、それをどのように問題決着したのか、全く不明である。こうした日本政府のやりかたもお笑いものだが、こうしたやっかいな問題をマスコミは、ただ興味半分につつくだけで絶対に追求しようとしていない。


こういう意味では、広島の平和運動は、原発などの実態や問題点をみることなしに「ノーモア ヒロシマ」を惰性的にやってきたのにすぎないのではないか。どこまで真摯に、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮などの核開発を追求してきたのか?どこまで真摯にチェルノブイリ原発事故を考えていただろうか?

ましてや日本の思想家や文学者で、どこまで誠実で一環した反核運動や反原発運動をやってきたのがいるだろうか?今回、村上が述べるスピーチは、だれでも考えることであって、「他人のふんどしで相撲をとる」とはまさにこういうことだ。思想は自らの血で編み上げるものだ。問題はこれからどうするかである!

村上もいうように、これからはだれもかれも再生可能なエネルギに向かってーーつまり自然エネルギーに向かえば、問題は簡単に解決するのだろうか?とんでもない。事はこんなに簡単ではない。これからの時代は、原発をがむしゃらに推進しようとする派と自然エネルギーを求める派が、熾烈な闘いが始まるのである。そこには中国もインドも含まれている。それはまるで恐竜の闘いのように、誰が地球上で一番強い説得力をもつかの闘いが、エネルギーの獲得に向かって始まる。この闘いの中でこそ、文学者の真意が問われるのではないかと思う。村上は、こうした流れに対しても、流れの方向性が定まったころに、はるかに離れたニューヨークなどから評論家よろしく文明論を述べるのではないか? 思想とは地をはって、血を吐くような生き方ではないか?こうした生き方をしていない以上は黙っていることだ。


「大亀ガウディの海」のタイトルは、カタロニア出身の建築家のガウディの名前とパプアニューギニアの物の本質という双方の意味をとって名づけられたものだが、この本はすでに30年以上も前に、広島の原爆や第五福竜丸の被ばく、そして現在の原発ラッシュの悲惨さから執筆され刊行されたものである。日本国内では見向きもされていないが、アジアの国々では17カ国で翻訳出版されており、オックスフォード大学出版からは1999年に英語版が刊行されている。そして100年以上にわたって読み継がれていく本として、韓国では9刷りされている。この物語には、原発の中で苦しむ海洋の生物たちは描かれている。それは現在の人間の苦しみでもある。こうした存在も知らない日本人には・・・・・・
そう、誰も知らないとき、未曾有の「大津波」がやってくるのである。









藤原新也が石牟礼道子にインタビューしたとき:

・・・・ちなみに石牟礼さんは村上春樹のスピーチもお読みになっていた。 「どう思われました?」

「文学って何さまって思いました」 不意に怒りをあらわにそう言われた。



2011年8月5日

・・・・・・・・昨日テレビで流された作家の村上春樹のスペインでの受賞挨拶にもこの空しさが溢れていた。
「核の被害をこうむった唯一のわたしたち日本人は核に反対すべきだった。だが今日本は世界第三位の原発大国だ。なぜそのような結果になったかというと、それは効率優先社会というものが作用している」

このステロタイプな分析が世界に名だたる作家の言葉かと耳を疑う。日本の地獄とはあまりにも遠く離れた安全圏の中での分析が空しい。彼はもうこの過酷な現実世界の中で”生きて”はいなのではないかと一読者として残念に思う。いやしくも表現者たるもの、地獄の片鱗にでも触れて語るべきだろう。

そこに片足を突っ込み、地獄の中で毒矢に射られた者たちの心を知るには時には同じ線量いっぱい吸い込み、いかなる無記が可能なのか、それを探しまわる必要も生じようというもの。文学している場合ではないのだ。







核への「ノー」貫くべきだった 村上春樹氏がスピーチ
2011年6月10日 06時53分(東京新聞)


スペイン北東部のカタルーニャ自治州政府は9日、バルセロナの自治州政府庁舎で、今年のカタルーニャ国際賞を作家の村上春樹さんに授与した。村上さんはスピーチで東日本大震災と福島第1原発事故に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べた。

「非現実的な夢想家として」と題したスピーチで、村上さんは福島第1原発事故を「(日本にとり)2度目の大きな核の被害」と表現。戦後日本の核に対する拒否感をゆがめたのは「効率」を優先する考えだとし、政府と電力会社が「効率の良い発電システム」である原発を国策として推進した結果、原発に疑問を持つ人々は「非現実的な夢想家」として退けられたと批判した。

その上で「われわれは持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原発に代わる有効なエネルギー開発を国家レベルで追求すべきだった」と言明。それが広島、長崎の犠牲者に対する「集合的責任の取り方となったはずだ」とも述べた。


カタルーニャ国際賞は、人文科学分野で活躍した人物に送られる。

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この記事へのコメント

  • tetoris

    批評家の言は、実態の否認から始まる。この論理を通すために資料を集め、新たな解釈を持ち込む。一見、論理的に整合性が取れているように思えるのだが、結論が釈然としない。このような議論の論理展開を精査すると、どこかで「風吹けば、桶屋が儲かる」方式の論理ギャップが存在し、演繹の限界を超える。

    小説家の言であるが、一向に根拠らしきものが存在しない。強いて言えば、自己のイメージ(モチーフ)に一般群集の心理を想定し、脚色する。小説として読むと、群集の心理想定が上手に出来ている場合、作者のイメージが伝わってくる。さらに、言語的技法を凝らして依り鮮明なイメージを読者に伝える。読んでいると小説に引き込まれる。

    さて、村上春樹であるが、・・・・。言は慎んだほうが無難だろう。本の売り上げに影響がでる。もっとも、売り上げ増加を見込んでの発言であろうが。さて、どの程度群集心理を理解できているか。彼の小説家としての力量が問われている。
    2011年06月21日 05:13

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