「雲の語った物語」―中国とパキスタンでの読者の反応

大空を流れながら自由自在に物語を書いた「雲の語った物語」その20篇が、2019年年5月に、中国の山東省で翻訳出版されました。どんなに嬉しかったことでしよう。天にも舞い上がる気持ちでした。出版社は、東側の果ての山東省ですが、出版記念会は、シルクロードの起点である西の果ての西安の都、(昔の長安の都)で開催してくれました。これら4冊の編集長の王さんに、「雲の物語20篇の中で、どの作品が一番お好きですか?」と尋ねると、すぐに彼女は、「お母さんの巻き寿司」が大好きです。」と答えました。これは広島の田舎の田んぼで、私の田舎の父母が農作業をしながら、子どもたちの成長を語り合っていた風景ですが、特にどこの世界でもお母さんの存在は、共通ですからね。そして母親は、誰だってどこのだれよりも心配性で働き者ですから。 お母さんの巻きずし:https://tajimashinji.at.webry.info/201009/article_1.html そしてお父さんについては、パキスタンにいた時、私の仕事の公用車のドライバーのヤコブからこんな話を聞いたことがあります。ヤコブはウルドゥ語で雲の物語を読んだといって感想を述べてくれて「やっぱり「雲の物語」の中では、お母さんの巻きずしが一番好き。特にお父さんが「教育は貧乏な家庭にとって投資」みたいなものだ。」と言ったところが一番好きです。」と言いました。「なるほど」雲の物語は、人によって雲の変幻のようにさまざまな受け取られ方をしているんですね。

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サキイカとアフリカ開発

ある時、アフリカのカメルーンのヤウンデから図書開発の責任者として活躍している専門家W氏が日本にやって来た。背が高い大男であるが、実に優しそうなアフリカの人であった。東京での会議を終え、京都旅行へ出発した新幹線での車中でのこと、私が差し出したつまみを一口食べると氏は驚きの声をあげた。 「おお!これはいったい何という食べ物。わしはこれまでこんなにうまい食べ物を食べたことがないと彼はつまみの「サキイカ」を口いっぱいにほおばりながら、まるで鬼の首をとったかのように演説口調で話をした。彼は長い間カメルーンで公共奉仕大臣の任にあったそうだが、彼の任はまだ続いているかに思えた。 「そうか、これはサキイカという名前か。この味ときたらたいしたものだ。これは海のイカを干し上げて味付けしているのか。これはすごい。これは美味い。アフリカでも絶対に受ける味だ。我々の酒のつまみのほとんどは、ヨーロッパからの輸入物だが、日本人は食べ物の分野でも、伝統や文化を大切にしながら独自な味を作り上げている。大したもんだ。日本人は・・・・」と述べたあと、 「私はぜひアフリカでも、サキイカを開発したい。イカをこのように加工できる機械を持ち帰りたい」と、まるで専門の図書開発のことはすっかり忘れたかのようにしゃべり続けた。 そして京都のホテルの部屋に落ち着いてからも、彼は山のように買いこんだサキイカをひたすら食べ続けるのであった。 その姿は、アフリカの旧宗主国であった国々が、ヨーロッパ諸国からあらゆる分野で…

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インドのタール砂漠をラクダで旅して

    昔から、広い砂漠をラクダに乗って旅することに憧れていた私、そして満天の星を数えながら砂漠の砂の上で眠ることを夢みていた私、とうとうその夢が実現した。しかしラクダで旅するのは本当に楽ではなかったが実におもしろかった。ここはインドのタール大砂漠・・・そういえば10年前、ペルシャ湾でラクダに乗って疾走したな・・・・(疾走と言えばいかにも聞こえよく、カッコいいですが、内実は疾走するラクダに必死でしがみついていただけです)(笑) 2009年8月7日 これは日本テレビの24時間テレビ番組で、タレントに紙漉きを伝授する番組を依頼されて、3週間もインドのラージャスタンの砂漠(タール砂漠)にやってきたのですが、私はその合間をぬって、ラクダ・サファリへ独りでかけたのでした。昨夜は、インドの広大なタール砂漠で睡眠しました。しかし眠る時には、広い砂漠なのに、旅行者5-6人が、肩を寄せ合って隣の睡眠を気にしながら睡眠したのは、いかにも文明国での人間のスペースの取り方と同じで苦笑せざるを得なかった。まるで山小屋みたいだった(笑)。しかも夜半を過ぎて、雨が降りそうになってきたし、風に混じって砂が飛んでくる天気には実は参った。頭が砂だらけになってしまった。 砂漠でのラクダの旅は、満月や星などを数えながらのロマンティックな旅だと思ったがそうではなかった。日本人にとって砂漠のイメージは、房総半島にある御宿の海岸の砂浜で詩人が夢見た「月の砂漠」の歌からこそ生まれた純国産であって、現実の砂漠は、とにかく、駱…

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トランプ大統領と安倍首相の初会談をテレビで見て考えたことー2016年11月18日

2016年11月18日の朝、テレビは、昨日の米国でのトランプ・安倍会談について伝えており、安倍首相の会談に対する感想を尋ねていた。私は安倍首相の表情が余りにも暗いのに驚いた。彼は思案などの顔を通り越して、大変な課題を要求され、おどおどしているような表情なのだ。私は安倍首相は割合、率直に彼の言動を表現する人ではないかと見ていた。うまく自分の考えが通ったときには、得意満面な顔を、もしもうまくいかなかった土壇場の時には、いらだちや精一杯の不満を顔や体全体に表現している政治家だ。テレビは視覚的に多くの真実を伝えてくれる。その安倍首相が、トランプとの非公式会談を終えて見せた今日の表情は、「これから日米関係は、最も熾烈な時代を迎える」という予感だった。 安倍首相は、会談内容を一切しゃべらなかったが、トランプは、大統領選挙の時から、不穏で爆弾的な発言を多発させていたが、おそらく大統領になってからも、その路線は全く変えないであろうことは明確に感じている。もちろん女性にたいする侮辱的な発言やイスラム社会やメキシコ移民などに対する挑戦的で差別的な発言には、大統領になると慎重になるにしても彼のひん曲がった魂やビジネス精神は、これからは米国の世界的な政策として確実に打ち出されてくるだろうと・・・私は感じた。 トランプは会談の中で、<これはすべて想像だが>、「日本は米国と同様に、軍事的にも経済的にも、世界秩序のために実体をもって責任を果たせ!」と要求し、「東アジアの環境を考えると日本が原爆を保有していくのは…

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この世界で一番強い者は誰か?

「この世界で一番強い者は誰か」について、世界一大きな会議が開かれました。小さな目に見えないような極小のウイルスから太古の巨大な恐竜、猛獣のライオン、そして人間たちなども多数参加して、朝から晩まで喧々諤々(けんけんがくがく)の大議論が行われました。そして結局、その結論は会議の巧い人間によって、「この世界で一番強い者は、やはり人間」ということになりました。 しかし突然、「宇宙を壊しているのは誰だ!」という誰かの横やりが入って人間は追い出されてしまいました。そして結局世界で一番強いものは「だれでもない」ということに決まりました。なぜなら「世界で一番強い者は、世界で一番優しいものでなければならない」という宇宙法則に人間は反していたからです。 ー雲の夢想録より

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南インドのダリット(不可触選民と言われる最下層)の子どもたちとワークショップ

一番目は子どもたちに自由な課題を与えて、自由に物語を創作・発表すること。それには、子どもたちの前に、「ヤシの実、イス、ゴザ」などを無造作に置いて、それを全部使ってひとつの物語を作るという創作ワークショップです。こうやって子どもたちの想像力を刺激するのです。驚くような作品が生まれました。 そして二番目は、みんなこどもたちが外の自然に出て、さまざまな木の葉っぱを拾ってくる、そしてそれを画用紙に思い思いに貼り付けて、着色して仕上げていく作品作り、それが完成すると、なんとも表現できないような感動的な作品となります。葉っぱの自然な素材に着色するのは、とてもおもしろいのです。 三番目は、自分の住んでいる家族、家庭、学校などを絵と文章と地図で自由に表現する自分自身の心理的な「絵地図」の製作です。こうやって描き出すと、自分自身の位置や問題、そして村の環境がすべて描き出されていきます。 みんな大喜び。そして驚くような創造的な作品がたくさん誕生しました。しかし私が大きなショックを受けたのは、村の子どもたちの家庭にエイズが蔓延している深刻な事実でした。絵地図は、深層心理を表現するので、自分たちが直面している問題を、子どもたちはありのままに書き上げたのです。その子は14歳の少女。お父さんはすでにエイズで亡くなっていましたが、その子もエイズの陽性、これはインドの農村地域のダリットなどの貧困家庭の深刻な問題でした。そしてこの子が発表する教材を見ているうちに、涙のこぼれるのを抑えることが出来ませんでした。 …

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お母さんのカマボコ

   私がまだユネスコ・アジア文化センター(ACCU)で働いていた 1980年頃の思い出です。アジア・太平洋地域の15カ国から絵本の代表的なイラストレーターを東京に招聘してセミナーを開催したことがありました。いずれの参加者も個性は強く、実に楽しい方ばかりでした。英語のコミュニケーションはみんなうまくはありませんでしたが、絵を通じての豊かなコミュニケーションは、実に愉快で有意義なセミナーでした。 そんなある日のこと。数カ国の参加者と連れ立って昼食に一緒に行った時、人民服を着た中国の参加者のT氏──彼は国民的に著名な漫画家でしたが、レストランのテーブルの上に並んだ食べ物を興味深そうに見つめてから「ちょっとお聞きしますが・・・・」とたどたどしい英語で尋ねてきました。 「・・日本の食べ物に、小さな板きれの上に乗っているおいしい食べ物があるそうですが、いったい何というのでしょうか?」と尋ねてきた。 「ええ、小さな板切れに載った美味しい食べ物?」 私は一瞬とまどったのですが、<板の上に載っている日本の食べ物>というのは「おそらくカマボコだろう」と思ったので、「ひょっとしてカマボコですか?」と答えると、彼は破顔一笑、「そうです。そうです。カマボコです。思い出しました。」といかにもうれしそうに大声で答えました。そこで昼食後は、私は早速近所のお惣菜屋さんを彼に紹介すると、彼はカマボコを何本も買いました。 当時は日中国交回復がなされた頃で、中国大陸からの参加者はまだ非常に珍しかったのです。   …

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凱旋した兵士たち・凱旋できなかった兵士たち

2004年頃、私はミャンマーの軍政下で、数年間教員養成の仕事をしたことがあります。あるとき、教員師範大学の教員と一緒に地方の学校へでかけて、地方のレストランで昼食を一緒にとっていたとき、下校時間でもないのに、外をおおぜいの子どもたちが歩いているのを目にしました。 「いったいどうしたんだ?なにかあったのか?」と思って、ミャンマー人の教員に尋ねると「兵隊が今、故郷に帰ってきたんですよ。凱旋ですよ。みんなで出迎えに行っているところです」というのです。「出迎えに?」私は一瞬驚き、さらに詳しく聞いてみると、戦争にでかけた兵隊が故郷に凱旋してくるときには、いつも子どもたちは動員命令を受け、戦場から帰ってくる兵隊を学校から出迎えに行くのだそうです。「その風景見たいな」と言ったらみんなで首を横に振って「外国人のあなたは見られない」というので、諦めていたところ、昼食が終わって車で出発したとき偶然ながら、車は凱旋してきた兵隊たちの隊列にぶつかって、みんな下車しなけれならなくなったのです。 それで私は、間近に兵隊たちの凱旋の様子を見ることになったのです。沿道には実にたくさんの子どもたちが動員されていました。両親たちもかけつけて、いたるところで兵隊たちと手をとりあっているのです。しかし兵隊たちの表情は全身薄汚れ、くたくたに疲れ切っているようです。そして手には、これまで見たことのないような兵器やバズーカ砲などを持参しています。おそらく凱旋どころか、彼らの大変な負け戦だったのでしょう。 …

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未来のつくり方ー「日本には世界に誇るものはたくさんあるが、ビジョンがない」

    かって私は、2005年頃、軍政下におけるミャンマーで、雑誌のインタビューを何度か受けたことがあります。長時間のインタビュー記事が掲載された後、編集者に反応を聞いてみると「読者からはかってなくいい反応がありました」と大変喜んでくれたあと、「検閲はたった1か所だけでした」というのです。「それってどこでしょう」」と尋ねると「社会の事実や真実を、次世代にきちんと伝えていくことが最も大切です」としゃべったところはすべて削除されたとのこと・・・「なるほど」軍事政権とは、いつも事実や真実を伝えていくことを極度に恐れていると痛切に感じたことでした。   原発ゼロ社会を達成したドイツのある専門家が、「日本には世界に誇るものはたくさんあるが、ビジョンがない」と言い切りました。ビジョンがないということ、それは「日本人は、刹那の時間内でしか具体的に物事を把握できない民族」だということですね。つまり50年後や100年後など未来へ向けての日本人の生き方の時間空間を描けないということです。確かに近年、日本には、ビジョンらしいものは全く生まれていません。その理由は、現在形は余りにも忙しく、過去にも未来にも目を向ける時間的な余裕が全く無かったということもありますが・・・なぜビジョンが日本に生まれないのでしょうか?   その答えは明瞭です。未来とは、現在から描くものではなく、過去の膨大な時間の中から描いていくもの、誕生していくものであるからです。考えてみると、日本は歴史問題に限らず、自分たちにとって忌まわし…

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バザールの男たち」について 

バザールの男たち」について  田島和子 私は、1997年夏から2000年冬までパキスタンのイスラマバードに暮らした事があります。それはアフガニスタンが米国によって大々的に空爆される以前でしたが、アフガニスタンは内戦状態が続いていて、大勢の人々が難民となってパキスタンにも逃げて来ていましたので、イスラマバード郊外にはアフガンの人々の村が出来ていました。むろん生活環境の整備などない土壁の小さな家々が肩寄せ合ってどこまでも続いている村でした。 さて、イスラマバードにはいくつかの大きな...市場がありましたが、週に2、3日は野外の市が開かれ、とくに日曜はサンデーバザールなどと言って、広大な野天のバザールで野菜、果物、色あざやかな香辛料、川魚、ヤギやバッフアローがそのまま吊るされた肉屋、雑貨や衣類、古着などあらゆる出店が並びます。その端の方にはアフガンの人々のカーペットや骨董品などの店もあって野天の大バザールといった情景でした。そこでは少年や小さな子供たちも大人に混じって立派に商売をしていましたが回教国なので、女性が外で働く事はほとんどなく、お客以外は皆男の人たちでした。私もよくこうしたバザールに出かけて買い物をしたものでした。 パキスタンの夏は暑くイスラマバードでさえ連日40度ですが、その暑い夏には沢山のマンゴーが果物屋に並びます。ある日友人が自分の農園から二箱のマンゴーを送ってくれました。素晴らしく美味しいそのマンゴーを食べた後、その木箱の色や模様が気に入ったので、捨てず…

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インドのロバに乗って、シルクロードからパリまで旅することを夢見た男

あるとき、インドのシャンティ二ケトンの地へ、カルカッタから一人の日本人の若者がやってきました。名前はなんでも「アキヒト」とか言いました。彼は大きな夢を持っているというのです。なんでもその夢の実現のためにマグロ漁船に1年間乗って働き、お金を貯めたというのですが、彼の夢とはロバの背にまたがり、カルカッタ(現在コルカタ)からパリまで陸路で旅をするというのです。目的地がどうしてパリなのか、よくわかりませんが、それはどうでもいいことでした。とにかく歴史上、まだ誰も実現したことがない陸路の旅であること、ロバに乗ってのんびりと行くのというのが、彼の夢の核心部分でした。 丁度1年前、私はパリからカルカッタまでバスや船や汽車を乗り継ぐ陸路の旅をしていたので、シルクロードの旅といってもなんでもないことだったのですが、乗り物はロバでパリを目ざすというのはなんとも痛快のように思えたのです。ロバはなんといっても愛嬌のある家畜ですからね。あの断末魔のような鳴き声を別にすればね(笑)。 ある日、夕食に彼を招いたところ、彼はマグロ漁船で、どのようにして働いていたか、どうやってお金を貯めたかということなど、漁船での最盛期の働きぶりをかれはおもしろおかしく実演してくれました。大きなマグロがどんどん捕れる時、どのように必死に大きな縄をたぐり寄せるのか、その表情には、夢を実現するために賭けた熱意のすべてがこもっているようでした。それだけの熱意があればどのような夢の実現も可能のように見えました。 彼は、カ…

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アジアの深刻な公害問題の今

  ベンガル湾に浮かぶ大きな島ーミャンマーのラムリー島のチャウピューに行ったとき、その海岸を歩いていたら、注射針をつけたまま捨てられてある注射器を10本も見つけました。そばでは漁師が、裸足で海へ入って魚を獲る網を打っていましたので、とても危険だと思って、学校関係者に尋ねたところ、かれらが言うのには、「これはすべて中国製の注射器だから、中国の河川から流れてきているのでは」と説明したのです。そこで私はさらに調査しようとこの島のゴミの廃棄場を調べてみたら、なんとこの島にはごみの処理場が全く無かったのです、すべてのゴミは島の反対側の荒れ果てた田畑にそのまま捨てられてあるのでした。ですから雨が降るとゴミは自然に小川に流れ出し、それから海岸線へとたどり着いているのでした。田畑には医療廃棄物がたくさん捨ててありました。    またあるとき、パキスタンの友人から聞いたある話ですがーある村で奇病が発生して、村人が次々と倒れて死んでいったそうです。原因が全くわからず。困っていたら、なんでも飲料水に問題がありそうだとわかってきて、それを詳しく調べると、村にある1軒の小さな病院は、ゴミを捨てるために、すでに使わなくなった病院の古井戸に、医療廃棄物や使い古した薬品などをすべて投げ入れていたそうです。唖然とします。深い井戸だったので便利で、何年にもわたって次々と投げ棄てていたそうです。そして、それは結局、地下水を通じて、村々の飲料水を汚染させ、村人たちが、奇病で倒れていったというわけでした。このようなことは、途…

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昔から広い砂漠をラクダに乗って旅することに憧れていた私

       昔から、広い砂漠をラクダに乗って旅することに憧れていた私、そして満天の星を数えながら砂漠の砂の上で眠ることを夢みていた私、とうとうその夢が実現した。しかしラクダで旅するのは本当に楽ではなかったが実におもしろかった。ここはインドのタール大砂漠・・・そういえば10年前、ペルシャ湾でラクダに乗って疾走したな・・・・(疾走と言えばいかにも聞こえよく、カッコいいですが、内実は疾走するラクダに必死でしがみついていただけです)(笑) 2009年8月7日 これは日本テレビの24時間テレビ番組で、タレントに紙漉きを伝授する番組を依頼されて、3週間もインドのラージャスタンの砂漠(タール砂漠)にやってきたのですが、私はその合間をぬって、ラクダ・サファリへ独りでかけたのでした。昨夜は、インドの広大なタール砂漠で睡眠しました。しかし眠る時には、広い砂漠なのに、旅行者5-6人が、肩を寄せ合って隣の睡眠を気にしながら睡眠したのは、いかにも文明国での人間のスペースの取り方と同じで苦笑せざるを得なかった。まるで山小屋みたいだった(笑)。しかも夜半を過ぎて、雨が降りそうになってきたし、風に混じって砂が飛んでくる天気には実は参った。頭が砂だらけになってしまった。 砂漠でのラクダの旅は、満月や星などを数えながらのロマンティックな旅だと思ったがそうではなかった。日本人にとって砂漠のイメージは、房総半島にある御宿の海岸の砂浜で詩人が夢見た「月の砂漠」の歌からこそ生まれた純国産であって、現実の砂漠は、とにかく、…

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絵地図分析ワークショップは、素晴らしい夢や力を子どもに与えます。

絵地図分析ワークショップは、素晴らしい夢や力を子どもたちに与えます。自分たちで作り出します。これは小学校6年生の感想です。 ー先日は、私たちのためにすばらしい授業をしてくださってありがとうございました。なんとなく書きはじめてみたものでしたが、やっているうちにだんだん興味がわいてきておもしろくなってきました。ひととりながめてみると自分の未来が目の前に見えてくるようでした。これからの人生が、私が絵地図に書いたとおりになるかはまだわからないけれど、けっしてあきらめずに。今回の授業をもとに夢を叶えたいです。 ―いそがしい中、学校に来てくださってありがとうございました。ぼくは人生マップをつくってとてもたのしかったです。できればぼくたちの卒業式に出席してください。   ―私は自分だけの人生マップをつくって、「私の人生の目標はこれだ!!」と発見しました。発見できたのは先生のおかげです。ありがとうございました。また自分のやるべきことがわからなくなったら、書き出してみようと思います。 ―この前はありがとうございます。ぼくが心の絵地図「私の人生マップ」を書いて思ったことがあります。一つ目は、自分の将来が明確になったことです。そのことで今何ができるか、何を目ざせばいいのかわかったきがしました。二つ目は、なんだかスッキリしたことです。なぜかというと苦手なことがモヤモヤしていたので、いい機会と思いました。 ―先日は「人生マップ」について教えて下さり、ありがとうございました。短冊に書い…

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人生を創造的に生きたい!

Q : 田島さん、あなたの活動は広い範囲にわたっていますが、その原点と中心は、南アジアのパキスタンやインドです。なぜあなたはそういう地域を選ばれたのですか? A: 私は、昔からインドのブッダやタゴールの哲学に憧れて、学生時代からインドへ行ってみようと夢見ていました。大学に在学していたとき、ロビンドロナート・タゴールの研究者である我妻和男先生から、インドのシャンティ二ケタンのタゴール大学への留学推薦を受け留学したのが南アジアとのかかわりの始まりですね。2年間でしたが遊学生活はとても刺激的なものでした。それからユネスコやNGOの識字教育の仕事などで、これまで20年間に、アジア、太平洋諸国、アフリカなど約30カ国くらいをまわりましたが、その中でも、インド、パキスタン、アフガニスタンなど南アジア地域が、教育問題でも圧倒的に多かったですね。これはやはり識字率が一番低く、貧困問題も極まっており、基礎教育の重大な問題がこの地域に集中しているということも関係していたように思います。 Q:1997年からのパキスタン滞在中での活動について詳しくお話ください。 A: パキスタンには3年半、識字教育の仕事で行ったとき、偶然にたくさんの子供たちが刑務所に収監されていることを知りました。どこの国でもそうですが、刑務所は、社会の矛盾や問題点が集中しているところです。冤罪、貧困による盗み、テロ、傷害、麻薬運び、殺人。子供たち自身が犯罪を犯すというよりも、大人たちが犯罪を行ってそれを子供たちに押し付け…

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「マンゴーの木の下の冷たいマンゴー」 

この話は、私がミャンマーの地方にある小学校の視察にでかけたときのお話です。私が視察に出かけるときは、いつもヤンゴン師範大学から二人の女性講師が通訳と記録係で随伴してくれます。 その日、車で目的地へ到着して、いざ宿舎に入ろうとした時、そこに大きなマンゴーの木があるのに気がつきました。そしてそのマンゴーの木の下には、なんと美味しそうな青いマンゴーの実がたくさん落ちていたのです。どうせ「虫食いマンゴー」とは思ったものの、試しにいくつか拾って部屋に入って、口にしたところ、なんともそれは美味しいマンゴーの実、日本にもないような感動的な美味しさなのです。「美味しい!」 そこで私はすぐに、マンゴーの木の下に引き返すと、できるだけたくさんマンゴーの実をを拾ってくることにしたのです。それは夜食や朝食のデザートになると思い、大きなマンゴーを10個ばかり拾って、それを部屋の冷蔵庫で冷やすことにしました。ミャンマーは丁度、夏の季節でしたから、冷やしたマンゴーの実は、とても美味しかったのです。 それから一眠りして起きたとき、私は、良く冷えたマンゴーを口にして、再び感激したのですが、なんとなく気になっていたことがありました。それは私が余りにもたくさんマンゴーを拾ったために、他の人はこれらのマンゴーを食べられないのではないかと心配になってきたのです。「そうだ、いくら美味しいからと言っても欲張りはよくない」そう思うと、私はすぐに、10個の中から大きなマンゴーを5個ばかり選んで、再びマンゴーの木の下にひき返したので…

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ある小学校で良いクラスをつくろうと一生懸命な先生がいた。

ここには先生の原点がありますね。作為的だという意見も多々ありますが、先生は実際このような現実によくぶつかりますよね。これは作為的でも無作為的でも、先生というものの本質をよく表していると思います。今日はとてもいい記事を読みました。 ******************** 【招待状】 ある小学校で良いクラスをつくろうと一生懸命な先生がいた。 その先生が五年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、遅刻をしたり、居眠りをしたり、皆が手をあげて発表する中でも、一度も手を上げない少年がいた。 先生はどうしてもその少年を好きになれず、いつからかその少年を毛嫌いするようになった。 中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。 ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。 そこにはこう書いてあった。 「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来楽しみ」とある。 間違いだ。 他の子に違いない。先生はそう思った。 二年生になると 「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。 三年生では 「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。 三年生の後半の記録には 「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、 四年生になると 「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」。 先生の胸に激しい痛みが走った。 だめと決めつけていた子が突然、深い悲しみを行き抜…

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人類進化のカギは「おばあちゃん効果」と米研究

人類進化のカギは「おばあちゃん効果」と米研究  2004.07.11 ワシントン(ロイター)   これは実に重要な研究ですね。人類を育てて進化させたのは、実は年配者ー特に「おばあちゃんとおじいちゃん」であったということです!アメリカの大統領のオバマさんもおばあちゃんによって育てられたのは有名な話です。   ー人類の長い歴史の中で、約3万年前に年配者の割合が飛躍的に伸び、これが進化のカギになったとする説を、米人類学者らがこのほど発表した。子育てを終えた「祖父母」らが、子孫の繁栄に大きな役割を果たしたと考えられる。 ミシガン大のレイチェル・キャスパリ氏らは、数百万年前の人類の祖先、アウストラロピテクスからネアンデルタール人、約3万年前のクロマニヨン人まで、合計768の化石を観察。歯の磨耗からそれぞれの年齢を推定した。さらに、原始人類は一般に15歳前後で子どもを産み始めたとの説を基に、15歳から30歳までの「親」世代と30歳以上の「祖父母」世代に分類した。 キャスパリ氏によると、祖父母世代の割合は年代を追って次第に増大したが、クロマニヨン人に代表される後期旧石器時代には一気に5倍に達したことが分かった。「ちょうどこの時期に、芸術や埋葬文化が発達している。同時に、弱者や年配者を尊重する文化も生まれたはずだ」と、同氏は説明する。長寿によって生殖年齢が延びただけでなく、年配者が経験を生かし、生存競争に貢献することで、人類はますます繁栄したとみられる。 自分の子育てを終え…

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なぜ「大亀ガウディの海」を執筆したか? 広島原爆から福島原発へ

この物語が生まれた背景を考えてみると、(私の母校ー広島県三次市立和田小学校の1年生であったころ)、1954年3月に第五福竜丸という静岡の漁船が、太平洋のビキニ環礁沖で行われたアメリカの水爆実験で、23人の乗組員全員が被爆し死傷するという事件があったことを思い出します。原爆で被爆した漁船員の姿、原爆マグロを、小学校の「光の教室」という巡回映画で見て、小学校1年生とはいえ大変大きなショックを受けたのですが、体験はしていませんが9年前に広島に投下された原子爆弾と重なってみえたからです。 私が生まれたのは、広島市から60キロ離れた三次という町で、幼少の頃よりヒロシマ原爆の恐怖や悲惨な話を親戚や被爆体験者などから聞いて育った世代です。原爆で被災された人々の救出に向かった近所の人々は、原爆の残存放射能で被爆しておられました。こうした体験が下地にあっただけに、原爆によって、漁民が死傷したり、被爆したマグロが大量に廃棄されたというニュースは、大きなショックを幼心に強烈に植え付けられたものでした。 大人が感じる不安以上に、子どもの心は柔らかくまるでスポンジが水を吸収するように、すべてを吸収していたのです。喜びも不安も悲しみも・・・そして感じたのは、原爆は過去のものではなく、今も太平洋上で核実験が行われていること・・・そして人生は夢や希望だけではない、底知れない恐ろしさや危機を全身に感じたことです。実存的な意識の芽生えでした。吉舎町にある日彰館高等学校を卒業後、1年間、広島大学で働いていた1966年に…

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初めての手紙

岩手県の昆愛海(こんまなみ)ちゃんが、5歳のとき初めて書いた手紙です。 愛海ちゃんは、両親と2歳の妹と一緒に、東日本大震災の津波で流されたものの、幼稚園の通園バッグが漁の網にひっかかって一人だけ助かったそうです。習い始めたばかりの字で両親へ手紙を書き、書き疲れて寝てしまった愛海ちゃん、お手紙には、 『ままへ いきているといいね おげんきですか おりがみとあやとりと ほんよんでくれてありがと』 『ぱぱへ あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのをとてね』とありました。 自分がいい子にしていればお父さんから電話がかかってくるかもしれないと、漁師のお父さんの携帯電話を持ち歩き、ママが帰ってくるかもしれないと毎日海辺で待っていたそうです。 ー読売新聞刊 ************ ************ ー愛海ちゃんはもう14 歳になったんでしょうか。中学校でも元気で頑張ってほしいものです。初めての手紙「ままへ いきているといいね おげんきですか」を読むといつも泣けてきます。

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世界の巨大な格差の中で苦しむ刑務所の中の子どもたち へ

約40年にわたって、アジア・太平洋地域で識字教育の仕事に携わってきて痛感したことーそれは社会の中で最も抑圧され、最も困難な状況の中で生きざるを得ない子どもたちであった。すべての人にとっては戦争状態のない平和が一番重要だし、生存のためには衣食住のような物理的環境がよく整備されていることは人間の最も重要な用件であるのは間違いないが、識字教育を行っているうちに、人間という存在は、物的なことだけではなく、精神や心の自由があってこそ幸福に存在するように思えた。  こうした精神や心の自由などが存在しないといかに物的な環境が豊富にあっても人間は幸せを感じないし、生の充足感を得ることができない。この人間の豊かな精神活動を支える根拠には ―豊かな言葉があり、人を動かす文字があり、人間性を高める表現活動のすべてがありーそこに識字の課題がすべて存在しているように思えた。特に変化の激しい21世紀には、識字の力を持っていなかったら生きていけない。 1998年の暮れ、私はパキスタン政府の社会福祉省の青少年福祉を担当している職員の依頼で、刑務所に収容されている子どものための識字教育活動に協力する機会を得た。当時私はJICAからパキスタン政府へ識字専門家として派遣され、連邦政府首相識字委員会(PMLC)のアドバイザーをしていた。私は刑務所に収容された子どもたちの実情についてよく知らなかったので、まず職員にパキスタン全土で収容されている子どもの数字や実情を記した資料を要請した。 しかし、いつまでたっても福祉省の…

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識字教育と絵地図分析の可能性ー2014年9月5日の「識字デー」の講演より

この講演は、日本ユネスコ協会連盟(NFUAJ)+シャンティ・ボランティア・センター(SVA)+ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)の三者の共催 ー世界中で、人が毎日最もよく使う言葉は、一体何でしょうか?それは実は「わたし」という言葉です。そうです。すべての人間にとって、「わたし」という存在はこの世の中で一番重要で、一番大きな存在なのです。その「わたし」が今、社会のいったいどこにいるのか、そしてとりわけどのような位置を占めているのか、さらにはどこへ向かって生きたらいいのかを表現していくのが、絵地図の大きな目的と役割なのです。 一般的に、地図とは「全体の中で自分の置かれた位置を、そしてどう目的地についたらいいかを教えてくれるもの」です。みんなその地図を持てば、これからどこへどのようなルートを選択すればいいのか、そのためにはなにをしなければならないかが明白になってくるのですーこうした理由のために「絵地図ワークショップ」という新しい識字教育の方法が生み出されたのです。これは1987年のことでした。 ユネスコの協力の下に、ネパールで初めて開かれた「成人識字教材の開発専門家を対象とした国内ワークショップ」がユネスコ・アジア文化センター(ACCU)によって開催された時、当時、私はこの担当者でした。そのとき私の願いは、ネパールが現在、直面している深刻な問題やニーズをしっかりと把握した識字教材を製作したいというものでした。世の中では、問題点やニーズの把握の必要性が叫ばれる割には、そ…

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武漢の李文亮医師と長崎の永井隆医師の遺書の言葉から

2020年2月6日、原因不明の肺炎の発生に警鐘を鳴らしたが、新型コロナウィルスによって34歳で死去した武漢市の李文亮医師の最後の言葉と、原爆後遺症で1951年に43歳で死去した長崎市の永井隆医師の言葉は極めて酷似しています。「私は去る」、「この子を残して」、というお二人の遺書は、この世を去っていく無念さと悲しみに溢れています。心から哀悼の意を捧げます。 「私は去る」ー李文亮 「私は砂粒となる前に、故郷の黒土白雲のことが、また想い浮かんだ。子供の頃を何度想い返したことか。風は舞い降り、雪は真白だ。 生きられたら本当にいいのに。でも死ななければならない。もう二度と妻の瞼に触れることもできない。子供を連れて東湖の春の日の出を見ることもできない。両親を連れて武漢大学の桜を見ることもできない。白雲の深いところまで凧を揚げることもできない。 たまには、まだ生まれぬ子供の夢を見ることもある。彼もしくは彼女は、生まれるやいなや、大勢の人の中から私を探す。子供よ、ごめんなさい! 私には分かっている。あなたはただ、一人の平凡な父親だけを求めているということを。それなのに私は、いつのまにか平民の英雄になってしまった。   まもなく夜が明ける。私は去らないといけない。一枚の保証書を持って(李医師の病気を公傷にするという武漢市政府の証明書が出された)。これは、私のこの世で唯一の携帯品だ。 私を理解し、愛してくれた世間のあらゆる人々に感謝する。黎明の頃、私が山の丘を乗り越えるのを皆が待…

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モンゴルの雲の下、大草原での豪快な食事

1994年、私はモンゴルの雲の下で、大草原の豪快な食事をしたことがあります。おそらく大陸を制覇したジンギスカーンもこのような食事をしていたのでしょうが、それは1頭の山羊の肉を鉄の容器にいれて料理する食事です。 まず鉄の容器に山羊の肉を入れ、その上に熱く熱した小石を入れ、それからハーブの山や岩塩やスパイスなどをたっぷりと振りかけ、その上にまた熱した小石を入れて鉄の蓋をきっちりと閉めると、その容器はぐつぐつという音をたてて山羊肉が煮え始めるのです。まるで容器は音をたてながら賑やかにダンスでもしているかのようです。 半時(はんとき)もしてから蓋を開けるなんとも美味しい山羊肉料理、それを20名ぐらいで草原に座って、大きな輪になって食べるのですが、その美味しいこと美味しいこと、また山羊肉の柔らかいことー大草原には風が吹いて、雲は流れて実に愉快。食べ終わると大空からコンドルが次々と舞い降りてきます。そこでみんな山羊の骨を次々と投げながら、モンゴルの大草原での豪快な食事を楽しんだのでした。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=481362751994026&set=a.118526281611010.19485.100003609154217&type=3&theater いいね!

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龍の国からやってきた王様の話

2011年11月18日 「みなさんは、龍を見たことがありますか」とブータンのワンチュク国王が、被災地の福島を訪れて小学校の子どもたちに質問した。子どもたちは質問を聞いて、あっけにとられたようにきょとんとした表情をした。だれだって龍がこの世界に住んでいるとは思っていないから、もちろん見たことはない。すると国王は言った。 「わたしはあります。わたしが意味する龍は、すべての人間の心の中に住んでいて、経験を食べているのです。年をとって経験を積むほどに大きく強くなってきます。ですから、わたしたちは、その龍をコントロールしなければならないのです」 なんという賢い問いかけを子どもたちにするのであろうか?もちろんブータンという国の名称が、「龍の国」ということから由来していることが背景にあるにしても、津波や原発に被災し息も絶え絶えになっている被災地の子どもたちに、この言葉の意味は、どんなことがあっても元気を出して、辛い経験を乗り越えて、人生をたくましく生きて欲しいと大いに励ましているのである。 「人間は経験の子である」とは、レオナルド・ダビンチの言葉だが、しかしこの経験を食べている人の心の中に住んでいる龍が余りにも傲慢に育ったとき・・・人間は必ず内外での大災害に不条理に直面する。それはあるときは戦争であったり、あるときは自然災害であったり・・・人は幸不幸の世界を常に彷徨っている。「経験は最良の教師ーただしその授業料は高すぎる」という言葉もある。 私は運命論者ではないが、確かに龍と…

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大先輩の言葉「あんたの耳がすごいんだよ」

1994年に死去された森滝市郎さん(広島大学名誉教授)は世界的に知られた著名な平和運動家でした。彼は冷戦時代、米ソの核実験や戦争に抗議して、広島平和公園で座り込ながら、自らの被爆体験を語り、核廃絶のために全力を尽くされた生き方は、被爆都市ヒロシマの象徴でもあり広島市民の誇りでもあったのです。 あるとき私は、森滝市郎さんの講演を友人の碓井真行氏(光明寺住職、画家)のお寺で聞くことがありました。彼の話は実に生々しく、原爆炸裂で目にガラスの破片が突き刺さったときの被爆体験を語られながら、人間の教訓として、「人間ほど愚かな存在はいない。核文明は人間と絶対に相容れない。馬鹿と言っても、人間ほど馬鹿な存在はいない。」と話をされ、私は大きな感銘を受けました。 そこで講演会のあと、「先生!すごかったです。素晴らしいお話しで、とても感動しました。」と感謝すると、森滝さんは、私の方をじっと見たあと、「私がすごいんじゃあないよ。あんたの耳がすごいんだよ。と謙遜されて答えられたのでした。 それを聞いて私は「あんたの耳がすごい」と指摘されたことに思わず嬉しくなりました。講演内容を誉めたつもりだったのに、私の耳を誉められたのです。これは悪い気持ちはしません。でもよく考えてみると、森滝さんは「わたしの話を、そのように "すごい"と 聞くことができるのは、あなたが持っている耳(問題意識)がすごいんだよ。」と謙遜的に答えながらも、若者を激励されるその姿勢に感動したのでした。 なるほど、考えてみれば、耳にも…

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<太陽の車>上村肇(かみむらはじめ)という社会思想家の語ったこと、生きたこと。

1960年から1980年にかけて、上村肇(かみむらはじめ)という社会運動家+社会思想家+文学者が活躍していた。かれは「創造的社会論」という新しいアイデアを掲げて、常に孤立奮闘しながらも、若者たちを暖かい眼差しで見つめて叱咤激励していた。彼は自らの生き方を通じて、激動の状況の中で人間を通して、人間や社会の彫刻を行っていたのだ。 あるとき私は、上村氏に、「あなたは創造という言葉をよく口にするが、あなたの言う創造とはなんのことですか?どのような行動をもって、人間は「創造」といえるのでしょうか?」と質問をしたことがある。すると彼は、すぐには私が満足する答えをくれなかった。彼は長い間沈黙していた。しかし後年、彼が自刃し、遺書となった彼の本のなかの文章に、「創造とは人の心のなかに灯をともすことである」と記しているのを見つけた。私はその言葉に大いに驚き、そしてその答えに心から満足した。そして彼の自死を深く悼んだ。 私はそれ以来、アジアや太平洋各国での教育の仕事に従事するとき、話の中で、彼の言葉をよく引用させていただく。創造とは、決して芸術世界や経済世界での限られた言葉ではなくして、今日の世界で最も必要な人間同士の関係を作りだす「人の心に灯をともす」本質的な行為を意味しているものだ。クリエィティブとは、「閉塞された人間関係を解放しながらあたかもキリストやブッダのように、人の心に火をともす行為を意味している。彼は言っている。 「・・・私は、自分がたとえどのような状況に追い込まれようと、自分の中…

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ヤンゴンのインヤー湖に生えていた大木の思い出

2005年頃、ミャンマーのヤンゴンでJICAの教育関係の専門家をしていたときには、いつも定宿はインヤーレイクホテル。このホテルは美しいインヤー湖畔にあり、近くにはヤンゴン大学やスーチさんの自宅などもあります。私が宿泊していたこのホテルの5階の中央の部屋は、なんと世界的な免疫学者として名高い多田富雄先生と全く同じ部屋でもあったようです。時は前後しますが、先生は当時、感染症対策でJICAの専門家としてミャンマーに長期出張されていたようです。 私がこの部屋に宿泊していた理由は、大好きだったホテルの中庭に生えている大木のためでーこれはミャンマー語でティット・ポープというそうですが、これは偶然、神保町の古本屋街で、多田富雄先生が書かれた「ビルマの烏の木」という本を新潮文庫で見つけ、その中にこの大木が書かれていたのですが、つまり全く同じ思いで私の部屋からその大木を熱っぽく見つめておられた多田富雄氏との不思議な巡り合わせを感じたものでした。 2015年再訪したとき、このホテルを訪ねたら、ホテル代はなんと5倍の値段に。当時は、40ドルぐらいだったのですが、今はなんと200ドル。早速、私はヤンゴン港のそばに小さな安ホテルを取りました。(笑)そこは大木は見えませんが、ヤンゴン川が見える景色の抜群だったところです。私はホテル選びではなににも増していつも眺望権を買ってしまうのです。(笑) https://www.facebook.com/shinji.tajima.129/posts/234…

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シャンティニケトンの岡倉天心とタゴール

2015年3月24日の日記より 40年前、私が住んでいたインドの西ベンガル州のロトンポリの砂漠状の荒野の辺りには、私の家とKPセンという老夫婦の2軒しかありませんでした。そのため時々、お隣のKPセンの家に遊びに行っていたのですが、KPセンは、ロビンドロナート・タゴールが作詞作曲した歌「ロビンドロ・ションギット」をよく歌って下さったものです。その歌は人生や自然について、実に深い意味をもった素晴らしいものでした。私もいくつかベンガル語で学んだことがありましたが、かれの歌はどうやらタゴール自身からの直伝のようでありました。 そうしたある日、KPセンの夫人が突然「わたしの父はオカクラから刀をもらったことがあります」と述べたのです。そのとき私は、笑いながら聞いていましたが、あとになってよく考えてみると、それは「オカクラ 岡倉ー岡倉覚三、つまり後の岡倉天心だった」ことがわかりました。当時、岡倉天心は、日本から横山大観、菱田春草などを引き連れてシャンティ二ケタンの地によくやってきていました。彼は「アジアは一つ」という理想を掲げて、ベンガルのタゴールたちと一緒に、新しい「美術運動」を起こそうとしていた1901-1902の頃です。一世紀も前のお話です。 そこで今回は、時間もあったので、KPセンの家を訪ねて、「日本刀を受け取ったというご夫人の父はいったい誰だったのか」詳しく調べてみることにしました。リキシャに乗って約15分でロトンポリに到着。そこでKPセンの家を尋ねたら、もうお二人とも亡くなら…

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なぜ福島原発の事故原因の究明を徹底して行わないのか日本?

なぜ日本国民は、福島原発の事故原因の究明を徹底して誠実に行わないのでしょうか? それとも再度、大地震によって事故原因を再確認したいのでしょうか?津波によって「電源を喪失した」という筋書きは、真っ赤なウソそのものです。 原発の配管は、とても複雑だそうです。そして40年の耐用年数をはるかに過ぎていて老朽化していたのですね。福島原発が地震で被災したとき、「配管が大きな音をたてて崩壊していき、それはそれは恐ろしい光景であった」とテレビ報道で原発作業員が話していましたが、2008年には当時の原子力保安院が、全国の原発の配管強度について、日立製作所が耐震強度計算を間違っていたと報告しているのです。 怖ろしい実態です。報告によれば、日立製作所は、実に1980年から28年間も耐震強度計算を間違え続けていたというもので、おそらく保安院は、2008年にその間違いを指摘し報告したのでしょうが、実際には日立にその補強や修繕を指示していたとは思えません。こうした詳細は早急な究明が求められるものです。 福島原発での1-4号炉の崩壊は、主要因として、津波で電源が失われたと言われていますが、現場の作業員の話では、「複雑な配管が大きな音をたてて崩壊した」ことを報告していますから、おそらく電源の喪失よりもこれらの配管が、崩壊して冷却機能が出来なくなったというのが真相でしょう。何千本もある配管が1本でも損傷すれば大事故になるのですから、つまり大きな地震がくれば、いつでも大惨事が起きるというわけです。 こ…

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私が学生時代に経験した精神世界

今は昔、私が学生時代に経験した精神世界 Q: あなた学生時代はどのように過ごされましたか? A: 私は学生時代の大学闘争に疲れたあるとき、中林という友人と一緒に、静岡県にある龍沢寺という禅寺に座禅を組みに行ったことがあります。中林は、早稲田の探検部に所属し、ジーパンをはき、下駄ばきで、おまけにギータ―を小脇に抱えていました。二人で参禅に訪れた時刻が夕方だったので、応対に出た若い僧侶は受付で「こんな夕方に、参禅にやってきていったいなんだと思っているのか?今日は受け付けできない。帰らっしゃい!三島の町で泊って出直してきなさい。金がなくばくれてやるが・・・」と横柄な口ぶりで答えました。そこで、友人とがっかりして帰ろうとしたとき、玄関先で声がしたのです。 「よしよし、座るのは寺でなくともよい!おう、よしよし、わがぼろ家に来て酒を飲め!」と60歳前後の不思議な人が現れたのです。そして朝まで彼の家で、一緒に酒を飲みながら話を聞いたのでした。彼は高村幸平氏。知る人ぞ知る存在で、氏の語る世界は人間の自然の世界から宇宙にまで及び、いちいち話しが驚くべき深い魂のこもった内容でした。その頃、政治や思想や哲学世界にさまざまな疑問をもっていましたが、そのすべてにある解決をもたらす出会いとなったのです。人との出会いとは不思議なものです。 私はその後、高村幸平さんには、この時の出会いだけではなく、人生の結び目、結び目でさまざまなことでお世話になりましたが、高村幸平さんは、常に「すべての存在を殺す…

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原発がどんなものか知ってほしい(全) 平井憲夫

平井憲夫 私は原発反対運動家ではありません。二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。 「安全」は机上の話 素人が造る原発 名ばかりの検査・検査官 いいかげんな原発の耐震設計 定期点検工事も素人が 放射能垂れ流しの海 内部被爆が一番怖い 普通の職場環境とは全く違う 「絶対安全」だと5時間の洗脳教育 だれが助けるのか びっくりした美浜原発細管破断事故! もんじゅの大事故 日本のプルトニウムがフランスの核兵器に? 日本には途中でやめる勇気がない 廃炉も解体も出来ない原発 「閉鎖」して、監視・管理 どうしようもない放射性廃棄物 住民の被曝と恐ろしい差別 私、子供生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。 原発がある限り、安心できない 筆者「平井憲夫さん」について: 1997年1月逝去。(福島原発事故14年前に逝去) 1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川…

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<大亀ガウディの海>ー中国の留学生による感想文

今日(2018年6月22日)は大学での講義の日でした。そこで今日は、「ヒューマン・リテラシーという、私自身がアジア地域の識字教育の中から作り出した「新しい教育哲学」とも云うべき話をしようと思いました。するとその時、中国からやってきた女子留学生が、先々週に彼女に貸した「大亀ガウデイの海」の本を読みました!」と言って本を返却しながら、感想文をくれたのです。 それは小さな絵本のように創られた感想文で、びっしりと日本語で書かれた文章には可愛らしい挿絵も入っていて、私はこのような心のこもった感想文に飛び上がって喜んだのです。今までこんなに美しい感想文などいただいたことはなかったからです。早速彼女の許しを得て、クラスのみんなの前で感想文を読み上げることにしました。みんなと早速シェアしたかったのです。読み進むにつれてその内容のなんという素晴らしさ、認識の高さ、美しさ、彼女の話し方は、まだたどたどしいように思えていましたが、彼女の書いた日本語は完璧です。すごいな!! しかも環境について、太平洋の生き物について、核環境について、物語について、これだけ深い考え方で、この物語を読んでくれていたことに深く感動したのです。「ああ、物語を書いていて良かった。」「教師をやっていて良かった」と思った今日は大変嬉しい日でした。次にご紹介します。 <大亀ガウディの海>ー中国の女子留学生による感想文 ******************** 「水族館で30年間暮らした大亀ガウディの大脱走物語。現代の海…

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寿(ことぶき)識字学校の大澤敏郎(おおさわとしろう)氏とヒューマン・リテラシーの思想

ちからにする寿識字学校  2006年5月12日第4470号 「このところ、夏日(なつび)があったり、強い風が吹き続けたり、地震も続いています。先週は、お休みでしたので、5月最初の識字です。連休中は、だいたいお天気もよく、どこかに出かけた人、休みなく仕事をした人、ゆっくりとからだを休ませた人など、それぞれに、いい時間だったことと思います。ぼくは、たまっていた(放置していた)あれこれのことを、すこし整理ができました。板を買ってきて、本棚も、ひとつ、つくることができました。部屋の中が、いくぶんすっきりとしました。(頭の中は相変わらずゴチャゴチャです)。 5月6日だけ、東京、渋谷の国連大学で開催されている、「国際識字文化センター(ICLC)主催の連続セミナー(全8回)の第1回に参加し、センター代表の田島伸二さんのお話と、タイにあるビルマからの難民(カレン族)キャンプでの図書館活動をしてきた渡辺有理子さんのお話を聴くことができました。アジア各地で、肌理(きめ)こまかで多様な実践活動をされている田島さんのお話、いつも敬服し、勉強になります。田島さんの最近の原稿”ヒューマン・リテラシーの理念とその活動について”(アジアウエーブ誌)をすこし引用します。途中からで、ほんのすこしで申しわけありません。 「・・・・そして、咄嗟に私は教育大臣が発言した識字に関し、ヒューマン・リテラシーという新しい概念を考えついた。「リテラシー(識字)教育とは哲学や方向性を持たなければならない。リテラシー(識字)…

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なぜインドは創作に適しているのか?

1975年頃、インドの西ベンガル州のシャンティ二ケトンに遊学していたときの思い出です。その地では、タゴールの学校(Visva-Bharati) の大学院哲学科には在籍してはいたものの、クラスにはほとんど関心もなく学校にはほとんど行きませんでした。興味がなかったのです。タゴールだけを祭りあげて、地元の少数民族のサンタル族の学生や文化を受け入れることもなく、学校の教育内容には期待したいものがなかったのです。 そこで私は、学校にはほとんど行かずに、文化の豊かな周辺の先住民族であるサンタル少数民族の人々の村を訪れたり、学校へ行けない子どもたちに’「砂漠の学校”」(粘土細工を作ったり、歌を歌ったり、英語を教えたり)しながら、夜には、タゴールが作詞した歌を歌って過ごしていたのです。のどかな時代でした。文化や自然の豊穣なベンガルの地で2年余り自由自在に生活していたのですから。幼いタゴールがベンガル語の韻の詩句を習い始めた時「ジョル・ポレ、パタ・ノレ(雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ)」という自然から湧き出た美しい言葉に霊感を感じたのは有名な話ですが、私も毎日、ベンガルの激しく流れる雨雲の下で、子どもたちと一緒に遊びながら、楽しく過ごしていたのです。ジョル・ポレ、パタ・ノレ・・・・ そのロトンポリの地にあったおかしな形をした私の住居(画家キロン・シンハーの家)は、カルカッタ領事館に所属し、ベンガル語を学んでいた藤田日出男さんの紹介で住むことになったのですが、広い大地の素晴らしい景色のあるところでした…

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生命を殺すこと、生かすこと

ミャンマーのある教育大学で学長を務めた教育者が、あるとき10人ぐらいの現職の教師の前で話をしていた。「生きているものは、どんな生き物でも殺してはいけません。それが仏教の教えです。」と力説していた。 私は、そのとき大学で、ライフスキル(生活科)の科目でマラリアの撲滅などについて教えていたので、 「それでは、先生にお聞きしますが、もし恐ろしいマラリア蚊が襲ってきたらどうしますか?その蚊は殺しますか?殺しませんか?」と尋ねると、かれはすぐに「そのときは、蚊を手で振り払うだけです。生き物を殺してはいけません。」と右手で蚊を振り払うような仕草をした その答えに納得できなかった私は、「でも先生、そのマラリア蚊がとても恐ろしい蚊で、もしそれに刺されたら子どもたちがマラリアになることが予想されるときには先生は一体どうしますか?」と尋ねると、かれは微動だにせず 「今、言ったように生き物は殺してはいけません。振り払うだけです。」と、再び手で振り払う仕草をして答えたので、私はさらに「・・・でも先生、その蚊がですね。突然背後から襲ってきたらどうしますか。急に手で振り払えない時とか、あるいは先生が寝ているときに襲ってきた時とか?」と尋ねみたが、彼はかたくなな態度を決して崩さず、 「何度でも言うようですが、生き物は決して殺してはいけません。」と断言した。「・・・・そうですか・・・・」 私は答える時、不審そうな顔をしていたので、教育者はしばらく考えてこんだ後、こう言った。「しかし、もし私の孫娘が襲わ…

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お母さんのカマボコ

1980年の国際児童年を記念して、アジア・太平洋地域の15カ国から児童書の代表的なイラストレーターを東京に招聘して、ACCUでセミナーを開催したことがあった。いずれの参加者も個性は強く、実に楽しい方ばかりだった。英語のコミュニケーションはみんなうまくはなかったが、絵を通じての豊かなコミュニケーションは、実に愉快で有意義なセミナーであった。 初日のこと。数カ国の参加者と連れ立って昼食に一緒に行った時、人民服を着た中国から参加者のT氏──彼は国民的に著名な漫画家でもあるが、テーブルの上に並んだ食べ物を興味深そうに見つめながら「ちょっとお聞きします。日本の食べ物の中に、小さな板きれの上に乗っているおいしい食べ物があるそうですが、いったい何でしょうか?」と尋ねてきた。「小さな板切れに載った美味しい食べ物?」 私は一瞬とまどったが、板の上に載っている日本の食べ物?というのは「おそらくカマボコだろう」と思って、「ひょっとしてカマボコ?」と答えると、彼は破顔一笑、「そうです。そうです。カマボコです。思い出しました。」といかにもうれしそうに大声で答えた。そこで昼食後、私は早速近所のお惣菜屋さんを紹介した。彼はカマボコを何本も買った。 3週間のイラストレーターのセミナーも終わって、帰国準備をしているT氏を見送りにホテルに訪れると、氏は熱っぽい目つきでじっと私を見つめたあと、1通の手紙を差し出した。私は驚いた。「お礼を言うのなら、口で言えばいいのに・・・どうして手紙をくれるのか?」とも思いな…

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物事の本質的な批判ができない日本人、なぜ?

3.11以降、「日本ほど情報操作の上手な国はない」とドイツのテレビ局が驚いていました。私も痛感するのです。このたびのオリンピックの開催では、日本は「原発のコントロールには失敗しても、国民のコントロールには成功している」ように思えたのです。  なぜ日本ではいつもこのような結果になるのでしょう?これはおそらく国民に批判精神が定着していないからでしょうか。批判精神をもつ人間は日本では歓迎されません。忌み嫌われるのが普通です。それを一番必要としているマスコミの人間も、ゴマすりは知っていても、批判精神をきちんと身につけていません。しかし欧米では物事の真実を把握するには、旺盛な批判精神で、まず物事を叩いてみて、その真価を見極めていくが常識です。これは遠くギリシャの昔から行われてきた方法なのですが、不幸なことに日本にはこうした精神は導入されていませんし育ってもいませんし、学校教育でも、同化することは教えても批判することの重要さをを教えたりしません。教室では、みんなと同じ弁当をたべるのが最高の喜びなのです。 ひとりひとりの感覚や感性や環境は異なります。そして違いこそが価値があり、異なった考えこそが集まったとき、普遍的な思想を作りだしていくのです。今回のように、間違った情報(虚偽情報)を提供して、オリンピックの開催を勝ち取った日本は、これからいったいどうするのでしょうか?首相が虚言したように「原発問題はまるで存在しないかのように・・・あるいは本当に、「470億円をかけて凍土壁を作るなど汚染水総合…

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千里の目を窮めんと欲して 更に一層の楼に上る

千里の目を窮めんと欲して 更に一層の楼に上る 2014年8月11日の朝、 ある瞬間、突然中国の唐時代の王 之渙の「鸛鵲楼に登る(かんじゃくろうにのぼる)という詩を思い出しました。そして思ったのです、「そうか、人生で歳を重ねるということは、さらに人生の高みへ登っていくことによって、これまでに見えなかったことや考えたことのなかった景色を見ることもできるようになる」ということか、と思えたのです。 漢詩には、もちろんいろいろの解釈があり一概に言えませんが、山登りでは、頂上へ向けて歩いているとき、高さによってさまざまな眺望が開けてきますよね・・・・この頃の仕事の中で痛感するのです。これまでわからなかったこと、見えなかったことなどが見えてくることの多いカンボジアでの滞在となりました。自分の顔に責任を持たねばならない歳になったのですね(笑) 今日は月曜日、8月11日、午前中は人に会ったり、午後からのワークショップやプレゼンに備えています。7点の新しい識字教材も準備できました。土曜日と日曜日も働いたので、ちょっときついですね。 鸛鵲楼に登る 白日山に依りて尽き 黄河海に入りて流る 千里の目を窮めんと欲して 更に一層の楼に上る 輝く夕日は 山の稜線にもたれかかるようにして沈み、黄河は、海に入ってもさらに流れる。千里の眺望を見はるかしたいと思い、さらに一階上の楼へと上っていく。 王 之渙の『唐詩選』 「登鸛鵲楼(かんじゃくろうにのぼる) 」 「鸛鵲楼(かんじゃく…

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雨の日のグンソー(軍曹)

広島県は中国山脈の山懐ー吉舎(きさ)での思い出である。私が中学生の時の話だから、もう何十年も前のことになる。1962年頃、私の在籍した私立中学校には屋内体育館がなかったので、雨天の体操の時間は、通常の教室での自由時間に振替えられた。振り替えの授業は楽しかった。自由になにを自習してもいい時間だったからだ。体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。 それは彼がかって兵隊にいたとき、「軍曹」の階級にあったからだ。彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。彼は体操の振り替え時間には決まって、戦争の体験談を生徒たちに話して聞かせた。だからいつの間にか、彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。彼は職業軍人であったのだ。 https://www.facebook.com/shinji.tajima.129/posts/1441611889188536

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90年前の9月、東京の路上は!

    90年前の9月、関東震災時に東京の路上が、多くの朝鮮人が虐殺された現場であったことはほとんど知られていません。しかし日本の本当の歴史を知らないと、とても日本人とは言えません。日本には、水では絶対に流せない凄惨な歴史があるのです。 九月、東京の路上で (IWJのインタビュー) http://www.youtube.com/watch?v=Q1qy3tyxF2o 90年前、東京の路上は、多くの朝鮮人が虐殺された現場となりましたが、これはアフリカのルワンダで、民族対立によってジェノサイド(大量虐殺)が行われたと同じで、関東大震災の時には、東京では、朝鮮人という特定の民族虐殺が流言飛語によって、官憲と民衆によって大規模に行われたのです。この背景には、1910年、日本が韓国を強制併合して朝鮮を植民地にした歴史的な背景がありました。 「日本人による朝鮮人、中国人への虐殺が発生した関東大震災。いつ、どこで、何が起きたのかを歴史資料からたどったノンフィクション「九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」(ころから)が出版された。官憲までが流言を信じ、社会全体が暴走する様子が克明に描かれている。翻って現在、排他的な言説やデマが日常にあふれる。「こうした現状はいつか90年前の状況につながっていく。いま言わなければ、と思った」。フリーライターの加藤直樹さん(46)は著書に込めた思いをそう語る。  きっかけは昨年、東京・新大久保で目にした排外デモの光景だった。「朝鮮…

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踏まれたことのない人間には、踏まれた人の痛さはわからない。

  私は長年、アジア・太平洋地域で教育や文化活動に従事してきたので、幸か不幸か、いつも日本が行った過去の戦争にさまざまな国で遭遇してきました。最初は、フィリピン、それは、識字ワークショップで村落を訪れた帰りに立ち寄ったところは、山下奉文大将のお墓でした。マレーの虎と言われた勇猛な大将でシンガポールを攻略し、この地で戦犯として絞首刑になった日本の軍人です。 ワークショップの参加者には、マレーシア、中国、パプア・ニューギニア、インドネシア、インド、フィリピンなどからさまざまでした。そこで私は、山下大将の墓を前にして、日本人として重たい空気の中で、みんなに一言しゃべらざるを得なかったのです。「かって日本はアジアの国々に侵略して、多数の人々に、たとえようのない苦しみや損害を与えたことがありました。私は戦後の広島生まれですが、戦争について日本人として心から謝罪したいと思います。しかし今回は、私はこうやってみなさんと一緒に「識字教育」で、アジアのために働いているのは、とても幸せなことだと思っています。感謝します。」と述べると、みんなうなずきながら、心から聞いてくれました。 また数年前、中国の南京師範大学で開かれた「絵地図ワークショップ」に参加したときには、ワークショップの閉幕式で、南京市に住んでいる若い大学院生のキラキラ輝く瞳を前にして、どうしても「南京虐殺」についても一言しゃべらなければならない雰囲気を感じました。これは義務や責任というよりも、日本人の一人として、私自身の気持ちを端的に表…

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小さなヒューマニズムと大きなヒュ―マニズム

    ヒューマニズムの大きさには、いろいろあるそうだ。小さなものもあれば、大きなものも。しかしどのような大きさのヒューマニズムでも実践がついてなければ、それはただ単に壁に描いた餅(もち)に過ぎない。食べることができないからだ。ヒューマニズムになぜ大きさがあるのか、それはビジョンの大きさからくるのだろう。      大きなビジョンをもてば、それは大きなヒューマニズムとなり、小さなビジョンをもてば、それは小さなヒューマニズムとなる。それはまるで石垣を築くさまざまな石のようだ。しかし石垣は大きな石だけでは決して築けない。石垣には、中小のさまざまな大きさの石が、大きな石を支えあって初めて頑丈な石垣が築かれていく。そこには大きな石だけが重要という発想はない。   世の中のヒューマニズムのありようも、これと同じ、大きなヒューマニズムを支えているのは無数の中小のヒューマニズムによってである。しかしし実のところどの大きさでも本質的な意味や価値では全く同じである。小さな石がきちんと支えていないと、どんなに大きな石でもぐらぐらと揺れる。    現代社会で、視覚には入るのは、いつも大きなビジョンやヒュマニズムであるが、実は世の中には視覚に入らない、あるいは目にみえない多数のビジョンやヒューマニズムがさまざま存在している。そのさまざまな価値をどれだけ重大に実感できるかによって、実は人生や世界の重さが決まってくる。一頭のクジラであろうと、一人の人間であろうと、一匹のアリであろうと、生命の重さが同じ…

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カンボジアで、私はとても重要な発見と改善をしました。それは図書館の屋根にいくつも穴を開けたことです。(笑)

  かって私はミャンマーで、全国にある小学校の授業参観をしていたとき、ほとんどの教室が余りにも暗いことに気がつきました。日照りの時は問題はないのですが、少し曇り空にでもなると、たちまち教室は真っ暗闇、電気照明などは全くないので、ほとんど教科書など読めない環境なのです。そこで私は、「屋根に穴を開けて、太陽光を入れれば、きっと明るくなるのでは?」と提言したのですが、みんな「そんなことをしたら教室内が太陽光で、暑くなってやりきれません」と拒絶するのです。「そうかなー?」と思いながら、数年後、今度はカンボジアの新築図書館にて同じ状況に遭遇・・・昼間だというのに図書館内がとても暗いのです。 そこでカンボジアの建築家に相談したら、「確かに屋根に穴を開けると、採光は簡単ですね。それに屋根瓦を透明な強化プラスチックで作ればどんな風雨にも負けません」と断言したのです。「よし決まった!」そこで建築家の協力を得て、新築の図書館全部の屋根にいくつか穴をあけました。するとたちまち図書館は真昼のように明るくなったのです。しかもほとんど暑くなりません。子どもたちは大喜びーーー いつも電気の恩恵にある日本の小学校からはとても考えられないことですが・・・良かった!良かった! これを読んだ方、ぜひ途上国の小学校や公共の建物で試してみてください。大変喜ばれること請け合いです。(その後、ソーラも導入されました。)

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猿山のお猿さんが行った「平和憲法改正の話」

平和山の「美しい国」のお猿さんたちは、70年にもわたって平和な暮らしを楽しんでいました。温泉もあるし、美味しいお酒もふんだんにある、こんな美しい山は世界のどこにもありませんでした。・・・しかしお猿さんの中には、この平和に飽きた者やさらに強欲なお猿さんもいて、彼らはもっともっと美味しい猿酒や猿山の領土を拡大したいと考えていました。そして10山超えたところの猿山には、絶滅兵器がなによりも大好きな独裁者も住んでいました。 そこである日、美しい国の指導者は、絶対に触れてはならないと言われてきた「猿山の平和憲法」の大改正に乗り出したのです。そして国民を騙して、いつでも好きなときに戦争のできる「戦争憲法」へと大改正を提案したところ、国会ではみんな訳もわからずに大喜び。とうとう平和憲法は、「戦争憲法」に塗りかえられることになりました。   翌日から、今までに見たことのないような最新鋭の武器がたくさん造られ始めました。空にも地にも海にも、たくさんの新兵器のオンパレード。みんな誇らしさと勇ましさと満足感でいっぱいです。そしていつの間にか、平和山はすっかり戦争山へと変わっていきました。戦争に反対した猿は、みんな「凶暴罪」で捕まり、彼らの脳みそはすべて削除されてしまいました。 そしてとうとうある日、山を10山超えたところにある猿山と戦争することになりました。実はどちらの猿山も自分たちの力を思う存分試してみたかったのです。しかし次の朝早く、たくさんあった猿山は、一瞬にして1000山も消えてしまいま…

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ピミアナカス寺院の蛇の女神

この遺跡は、アンコールトム遺跡のそばに建っているピミアナカス寺院で、ここには不思議な伝説が伝わっています。この寺院には、九つの頭を持つ女の蛇が住んでおり、王様は夜な夜な寺院の最上階で、この蛇神と交わらなければならない、もし一日でも怠ると、王は死ぬという伝説が伝わっていたのです。そしてある日・・

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ドイツで執筆した物語をパキスタンで舞台化「孤独な狐ーコンキチ」

コンキチの創作を書き始めたのは 1974 年、もう 46年前になりますね。当時、遊学していたド イツのミュンヘンにあるアパートの6階で、小雪が舞っているアルプスの方角を眺めながら、 ふと思いついて書き始めた寓話です。そのとき私は26歳、毎日、バイエルン州立図書館に通 っていました。そして人生を限りなく夢想していたのです。 その頃は、春になって暖かくなったら、ドイツから汽車で出発し、トルコの黒海を船で渡り、シ ルクロード経由でインドのシャンティ二ケトンの大学へ遊学を始めようと考えていたときでしたが、降 り積もる雪を見ているうちに、私はふと生まれ育った広島の山間部にある故郷の三次を思い出して いたのです。故郷にも、同じように今は雪が降っているだろうなと想像したとき、不意に雪の中 に一匹のキツネのイメージが浮かんできたのです。 「そうだ!キツネの物語を書こう!それは私自身の生き方を表現するものになるかも知れな い。そのキツネは、山の自然を破壊され、絶望感とともに、人間へのあこがれなど複雑な気持 ちを持って、人間に変身する―そして山を下り、会社人間となって夢中で働く人生。しかし、キ ツネを待ち受けていた人間世界とはいったいなんだったのか? 人間は生涯をかけて生きるために懸命に働く仕事の意味はいったい何か、人生とは?生活と は?幸せとは?私自身の人生を重ね合わせながら、1篇の創作に10年もの歳月をかけて 「コンキチ」の物語を書き上げてみたのです。この物語が初めて刊行されてから37年…

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アジア・太平洋共同出版計画(ACP)と21世紀の課題

日本が国際的な牽引役を果たした「ユネスコ・アジア太平洋共同出版計画」は、1970年から30年近くにわたって、アジアの約20ヵ国が協力して子どものための共通読み物を製作したプロジェクトです。そこから生み出された「アジアの昔話」全6巻や『どこにいるかわかる?』など30点近くの児童書が、今でも子どもたちに親しまれています。アジア20か国でも同様で、今でもたくさん読まれています。私は1977年から1997年まで20年間、ユネスコ・アジア文化センター(ACCUで、このプロジェクトを担当しました。これほど感動し楽しかったことはありません!そして世界中の子どもたちや大人たちに貢献してきたことも・・・ このプログラムが、かってアジア地域に誕生していたことはまるで夢のようです。これは国境を超えて宗教の違いを超えて、共同で育んだアジアの子どもの本が、たくさんのこどもたちに熱狂的に読まれていたこと。アジアの国々で採話された昔話は、アジアの何十もの言葉で翻訳出版されて、その本から再びアジアの昔話の語りが始まったことー実に30年間にわたって続いたこのACCUのプログラムは、アジアだけでなく、全世界の図書開発にも大きな影響を与えました。 そもそもの始まりは1966年、ユネスコが世界図書年を記念して東京で開催した「アジア地域出版専門家会議」です。会議はアジア地域では出版活動が非常に低調で、特に児童書の不足が深刻、図書の甚だしい不足が教育振興や社会的・経済的な発達を極度に妨げていると指摘しました。しかしこれに…

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Minnie Voughtrin 南京事件が起きた時、金陵女子大学で女子大生たちを救ったヴォ―トリンという女性教師

<南京師範大学で絵地図ワークショップが開催された際、キャンパス内で出会ったヴォートリンの銅像: 2009年3月21日、南京師範大学の宿舎からキャンパスの中を歩いて、絵地図ワークショップの会場に向かっていたときに、キャンパスの一角の木立の下に、小さな銅像(上半分)が建てられているのを見かけました。 容貌からして欧米人のように見えたので、地元の出版社の編集長に「あの銅像はどういう方でしょうか?欧米人のように見えますが、この学校の設立者ですか?」と尋ねたところ、彼は「いえ、彼女は中国人です。学校の設立に関係した人でしょう」と言ったので、ああ、そうかと納得していました。 ところが後日、南京虐殺祈念館に行ったとき、南京師範大学(昔は金陵女子大学と言った)ヴォートリンという教師が虐殺を逃れた子どもや女性たちを金陵女子大学のキャンパスで保護していたという写真を見たのです。その写真を見ると、なんとなく銅像の顔と似ているのです。そして彼女は長年、金陵女子大学に奉職したと書いてあったので、 「もしかして宿舎の近くのキャンパスで見かけた銅像は、ヴォートリンではなかったか、銅像の顔は、中国人ではなくて欧米人の顔だったし・・・」と思って、もう一度銅像を確かめてみると確かにミニー・ヴォートリン"の銅像でした。 地元の出版社の人もこの銅像のことは知らなかったのです。 ************************ ミニー・ヴォートリン について: 南京の避難民たちに「ミニー…

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